遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

気遣いのもたらすつまらなさ

お互いが綿密に気遣いあう世界は快適だとしてもどうしようもなくつまらない。

なぜ過度の気遣いが必要か。その理由のひとつは、個々人が自分の無力感に直面したり、価値観が否定されたりすることを過度に恐れているからだ。確かに互いの価値観の尊重がより高次に人間的な関係性の基盤となっていくことに疑いの余地はない。しかし尊重することと否定を一切しないことは似て非なる。

互いが価値観の否定を過度に恐れると、価値観の建設的な衝突はただそれが「衝突」であるがゆえに、感情的に回避されるようになる。

より高次な関係性へと行き着きたいのならば価値観と価値観の衝突は避けられない。なぜならば、互いが相容れない価値観を持ち合わせ、かつ気遣いを働かせることによってそれらの衝突を回避した場合、価値観と価値観とは低次な関係性の両端に遊離する、「互いに直視されないもの」に留まるからである。見て見ぬ振り、平行線を辿る議論、互いの存在の皮相性は、「生きた屍」という言葉を思い起こさせる: もはやお互い、生きてその場に居合わせる意味がほとんどない。そこに心情の交換はあっても精神の交流はない。

私たちは気遣いによってその場の快適さを享楽するかたわら、価値観の止揚・洗練の機会を逸し、低次の関係性に甘んじている。気遣い、思いやりに溢れた世界においては価値観の差異がどんな有意義さももたなくなる。なぜならそれが差異として現出することがそもそもひどく恐れられ嫌われ避けられているために、「価値観をぶつけ合って洗練させていく」という空気感が廃れていくからである。この傾向の甚だしさは、社会の成員の価値観の画一性の甚だしさ、及び個々人の、自分と異なる価値観への内心の(=決して公の場では表明されない)不寛容として観察されるだろう。