遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

世界はなぜ醜いのか

世界はなぜ醜いのか、という疑問に対して導かれる答えは、大概、個々人の鬱憤晴らしの域を出ていない。つまりある人にとっての世界の醜さとは、所詮はその人が日々感じる不満や経験する失敗の恣意的法則化でしかないのかもしれない: 私がこんなにもひどい状態にあるのは世界が醜いからだ、という風に、自分(または親しい人)の苦境を必然的なもの、外部に原因のあるものとみなすことによる、認知的不協和の解消手段としての「醜さ。」

だとすれば世界の醜さとは相対的(人それぞれ)なもので、だいたい生活の苦しい人ほど世界は醜いことになる。なんて身も蓋もないのだろう。

あるいは実際に世界は醜くて、人によって醜さへの感度が異なるがゆえに世界の醜さが相対的になるのかもしれない: 芸術家は世界の醜さを誰よりも知っている(感度が高い)。実務家は醜さなど知ったこっちゃない(感度が低い、ないしは低くしないと務まらない)。この場合もやはり、それぞれの感じ取る世界の醜さは「その人の責務や人格や能力、経験」に規定されており、そうであればこそ醜さは相対的になる。

醜さの相対性の検証のために、神の視点を想定してみる。神は地球儀を持っていて、気まぐれに日本を覗き込むと、そこに今日の日本の人間模様が映し出される。神は醜さを感じるだろうか?あらゆる願望や利害に束縛されない存在にとって醜さとは果たしてなんなのか?

神は醜さを感じないだろうと思う。例えば私達が部屋の中で衝突と運動を際限なく繰り返す空気分子を(心の目で)見たときに醜いとは感じない。餌を運ぶアリの大群を見ても、シャチに捕食されるイワシを見ても、木々を呑み込む溶岩流も、星の消滅と生成が繰り返される宇宙も、私達がそれを形容するのに醜いとは言わない。人間もそういう地平に生きる生物体ーーー物理法則に従って生成と運動、消滅を繰り返す存在ーーーであることに違いない。きっと神はそういう目線を私達に注いでいる。だから神にとっての人間は醜くはない。醜さという次元がそもそも意識されない。

ここから、醜さは無知と関わり深い、という仮説が生まれる: 私達が世界を醜いと感じるのは、(みずからの驕りや無知を棚に上げて)世界を醜いままに、感じ取るままに、自分の経験や情感に語らせるままに判断するからである。というのも、自分がいまこの瞬間に知覚している現象の原理や本質を知り尽くしている場合(それはまさに神の立場)、その現象は醜さとしてよりまず最初に調和感、蓋然性、妥当性、整合性=「腑に落ちる感じ」として経験され、そうであるがゆえに、「醜い/美しい」という評価軸はもはや持ち込まれなくなるであろうから。

要するに

  • 私達が基本的に、自分という個体、主観性に引きこもり、自分の感性や利害の正当性に過度の信頼を置く存在であるがゆえに、世界は醜いものとして捉えられる;
  • 超越的で客観的な視点は醜さという次元を抜きにして対象を捉えようとする;
  • 認識の対象となる現象の醜さは無知に根ざしている。