遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

巨大な真実の統一体と知性

一人ひとりの人間はそれぞれ固有の真実の体現者であり、社会全体としての真実の体現形態が後に時代と呼ばれる。

そして時代の連なりの様態が、より深遠な真実として後代の人間の前に投げかけられる。

たかが一時代のたかが一人の人間からは、希薄な意味と片落ちの真実(half-truth)しか見出されない。しかしそういう個人の不完全性を、完全性として、固有性として、代替不能な真実の断片として"加味"する知性は、つねに想定可能である。

そういう知性の実現は不可能に近い一方で、その知性の視界および認識を近似的に想像することはできる: その視界においては、価値や序列・世俗といった概念はもはやその形を保たず、ただただ静的で巨大な真実の統一体としての世界が観察されるだけである。それをより具体的、個別的な意味に分解することはできず、仮に出来たとしても、それらの意味の断片の総和は元の真実の統一体の真部分集合でしかない。

核心的なのは、不完全性の集積は不完全性とは限らないことである。あるいはこう言うべきかもしれない: 全体性を経由しない知性にとっての「不完全性」は不完全だ。(その不完全さの程度は経由する全体性の不完全さに対応している。)

真実を相互補完的に体現する存在としての個々人の意味は誰にも奪われない。しかしその意味は決して、完全には汲み取られない。完全な全体性を経由して個々人を観察できる知性が実在しないからである。先述のように、我々には完全に全体的な知性の視界を近似することしかできない。

しかし楽観的になれば、調和的な世界を営んでいくために十分な近似の精度を実現することさえ可能ならば、人間にとってはそれで十分だ。さまざまな技術を運用可能かつ実用的にしているのは近似解であって理論解ではないように。

よって、調和的な世界の実現可能性の問題に際しては

  • 人間にはどれ位の全体観が可能なのか
  • 人間に必要とされる(=人間が目指すべき)近似精度はどれほどか
  • それがどのようにして実現可能なのか

をまずは考えるのがよさそうだ。