遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

自尊心と成熟、傷つくことと社会

私は自尊心の防衛としての他者の言葉にも自分の言葉にも、心底うんざりしている。どういう言葉かというと、自分の居場所を守るために他者の居場所を侵す(あるいは貶める)言葉、他者を(時に取り返しのつかないほど)傷つける言葉である。

そういう言葉を発さないことというのは、意識してどうこうなる次元の問題でもないし、付け焼き刃的な知識は役に立たない。なぜなら、自尊心の基盤が強固なのかそれとも脆弱なのか、そして人間として十分に成熟しているか、それらが人間の意欲や態度、果ては行為と言動、洞察力や世界観を決定的に左右しているからである。意識や知識というのはどちらかといえば表層的なものである。

だとすれば、他者を傷つけているか否かは、人間としての成熟ぐあいの如実な指標となるのではないか?(それは流石に短絡的すぎるが、当記事ではひとまずその考えに則ってみる。)

精神的・知的に成熟した人間だけが誰も傷つけない言葉を知り、心からそれを発し、そして実際に誰も傷つけない生き方を送ることができる。その上、更に成熟が進めば、他者を傷つけないだけでなく、救うことのできる次元にまで及ぶだろう。

自尊心の強固な基盤は人間の成熟のための必要条件である。また、人間の成熟は自尊心の自足的充足のための必要条件である、言い換えれば、人間は未成熟なうちは、自尊心を保つために他者を必要とする。

その「他者の必要性」には主に2つの意味合いがあって、

  • 家族愛、共同体の絆、組織システム、成功体験などによる健全で文化的で、強固な自尊心基盤
  • 主観的、攻撃的、差別的、自己擁護的で観念的で流動的で、他者を傷つける過程を本質的に伴う、脆弱な自尊心基盤

のうちどちらかを利用可能なのかによって、その個人の自尊心の維持如何、そして成熟の様相は断然異なってくる。

いわゆる「不幸な人間」というのは、前者の自尊心基盤が利用不可能な状況を余儀なくされた人間であり、その自尊心基盤の脆弱性ゆえに人間としての成熟が滞っている人間である。

そういう人間は自尊心の維持のために、後者の自尊心基盤に、消去法的に依存する。しかし成熟はままならない。

世の中の争いや諍いやいがみ合いの大部分は、未成熟な人間の自尊心の拠り所として捉えれば腑に落ちる。(もちろん「真っ当で」「成熟した」争いもある。)

未成熟な人間の最も顕著な側面は攻撃性であり、彼らは冒頭に書いたように、自分のために他人を侵し貶める。しかし彼らは彼らの抱える自尊心基盤 - 事情から、そうする必要に迫られているのである。

彼らに傷つけられた人間は少しだけ自信や元気を失って、その分だけ成熟が遅れていくだろう。するとその分だけ強固な方の自尊心基盤の強固さが揺らぎ、その分だけ成員の成熟が遅れる。つまり社会全体が、未成熟な人間の攻撃性を起点として、成熟に関する負のスパイラルに落ち込んでいく。

傷つく人間の多い社会というのは、成員が、社会システムの運営に求められる成熟度を平均して達成出来ていない社会といえるのではないか。

同様に、社会に救われない人間が多いのならば、成員はまだまだ成熟の余地を残しているということなのではないか。私は、誰もが救われる世界が、個々の人間が十分に成熟することによって実現可能であると信じたい。

その信条から更に派生する信条なのだが、誰かを傷つける必要のある理屈はほとんど必ず、不完全性や欺瞞性、そして未成熟性を含んでいるものだ。