遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

絶対的な子ども 病理的な成人

健康な成人の「健康さ」は相対性に侵食されている: ある成人の健康さは他の成人の病理性でありうる。

対して子どもの健康さに疑いはなく、疑いを向けるのは真に病的な成人以外にありえない。子どもの生態は本能や真理、本来性にきわめて近接しており、その点に関して成人は子どもに及ぶべくもない。

成人の健康の相対性の根源の一つは動機性である。非本来的に条件づけられた成人の認識作用はことごとく動機的になる。つまり何を見るにも、何を知るにも、何を感じるにも、意識はその向こう側の目的に束縛されており、眼前の対象物はほとんど無視されている。ただ虚ろな心理的視線が対象を掠めるばかりである。精神は浮足立って、いまこの瞬間から時間的・質的に隔たったどこかを漂っている。そういう成人は、隣にいる他者が苦悶の表情で居ても気付かないフリができるし、悲痛な叫びをあげていても右から左に聞き流せる。他者への献身が彼の目的によって正当化されないかぎり。

それでも、成人の見据えている目的が何らかの価値を有する場合、現実軽視はかろうじて許容されうる。つまりそういう成人は、正しい価値を追求できているという意味で、かろうじて健康の範疇に踏みとどまっていると言えなくもない。

最悪なのは「病的な」成人の場合で、見据えている目的の価値すらあやしい場合である。彼らの目的というのは言うなれば、現代的な生活様式を通じて生成された、精緻でまことしやかな蜃気楼である。絶望的なことに、成人もその周辺の現実も報われないことが確定している。なんたって彼らが追い縋っているのは蜃気楼である。

ここで私が語っている成人の病理性というのはつまりは、価値のないものを追い求めてしまえる精神の劣化・衰弱・迷妄のことになる。

この病理性は二重の病理性である: 誤った(蜃気楼に追い縋るような)価値判断をすること、そしてそういう価値判断をしている自分を(能力不足で/活力不足で)批判的に捉えられないこと。

厄介なことに、この病理性はえてして他者軽視を伴う。自分を批判する機能の低下と、存在次元での他者との矛盾の感知に伴う不快感とが合わさると、防衛機制としての他者への攻撃性あるいは自己への注視性が強化される。いずれも他者の尊重とは逆行する傾向性である。

そういう経緯を経た個人が密集する組織においては、相異なる価値観が「排他的に」乱立する。なぜなら、より激しく表出した防衛機制的・自己愛的な価値判断は、相互の違いばかりを悪い意味で際立たせ、相互の建設的 - 共通基盤の発見への誘因を軽視あるいは看過する傾向を強めていくからである。

併せて、そういう個人はえてして「自身の健康さ」を主張する。「病理的な精神による価値判断は正当ではない」という一般的認識に則る程度の目敏さは備えているからである。

ここで冒頭の「成人の健康さの相対性」に繋がった。このようにして、自己批判性に乏しい個人間の非建設的な相互作用によって、(しばしば互いに矛盾するような)「健康さ」が並存するハメになる。(「健康さ」は「正しさ」と言い換えてもいいかもしれない。)

子どもはそうではない。子どもの健康さはただひとつである: 子どもはただ生きてさえいれば、一挙手一投足、その全てが健全性に満ちている。子どもは無条件的に健康であり正解であり、そのため異なる子どもの健康さが相矛盾することはない。

子どもは先述の二重の病理性から免れている: 子どもの価値判断は真に迫っている。そして子どもは自分を否定することについて、能力面でも活力面でも不足がない。

思うに、子どもの「動機の無さ」(あるいは「動機の無垢さ」か?)が子どもの認識の稀有さを、ひいては子どもの健全性の根本なのだ。子どもの認識において最重要視されているのは現実そのものであり、子どもは現実に則して自己を否定(=刷新)することを容易く行う。

子どもの絶対的な健康さから放たれる言葉が、凡百の成人を後ろめたい気持ちにさせる。思うにこのことは、成人も深層心理においては「自分は決定的に誤っている」「自分は病的だ」「自分は本来的でない」「自分は浅はかだ」ということを知っていることの証ではないか。そうでなければ、子どもの言葉が成人の心を揺さぶることはないはずだ。

ここに健康な成人になるための活路が見出される:子どもの言葉に耳を傾け、子どもを見習い、子どもの心を思い出すことは誰にでもできて、しかもそういう"心の更新作業"の価値は子どもの絶対的な健康さに裏付けられている。

ただし、子どもにそういう視線を向けることは、動機的であり、現実軽視的であり、不純であり、子どもそれ自体は結局眼中にない。それゆえ子どもにとっては、そういう視線は大いに有害でありうる。子どもはあくまで子ども自身の人生を生きるために生きているのであって、成人の病理性の治療という目的に彼らを従属させることは許されない。

生まれた頃は誰もが健康だったはずであり、皮相的な(あるいは形骸化した)慣習、社会的立場の維持のためのいざこざ、合目的的な些事、資本主義付随的 - "蜃気楼"のために大人は病的になり、しかも病的な自分に気付けないという病理性がそこに上乗せされて、もはや何が何だかわからなくなりながら、独善的に生きるしかなくなっていく。

そういう状況における指針として、私は次の私見を掲げる: 自己批判には能力も活力も必要であり、いずれかが不足することの主要な帰結が現実軽視である。