遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

構造の機能に関する雑感

構造に身を置くことは、程度の差こそあれ

  • ​欲求の範囲、感情の種類および激しさ、認識の深度、その他さまざまな人間的要素に制限をかけ秩序づけられること

だと考える。「られる」というのが核心。

例えば日本社会という構造に身を置き続ける限りは

などのことはほとんど考慮する必要にみまわれない。他のとある構造内では誰しもが当たり前に考えていることであるにも関わらず。

良くも悪くも、構造の内側はとことん限定的になる。

あることがらを考えなくて済む環境では、そのことがら周辺の問題解決能力を育む機会はおろか、解決能力の無さに直面する機会すら与えられない。

だから日本では必然的に、「異人種と共存できないこと」「実力主義に適応できないこと」「宗教的な体験の恩恵に与れないこと」に悩む日本人も、そういう事柄に関して問題意識を持つ日本人も、ごく少数になる。そもそもそういう観点を持つ必要性が(平均的な日常に埋没する限り)ないから。

構造は大多数の成員の大まかな行動および思想を完全に決定づける、と思っている。「構造の定めた規範に疑問を抱き、抗うこと」に違和感を抱かせること、それも構造の機能であり、常識を疑わない成員が大多数を占めればこそ、構造は安定的に維持される。

もっとも、構造の認識制約機能はむしろ構造の長所でもあり、人々を認識のカオスから守る役割を担っている。人間の知的能力は有限なので、考えるべきことは少ないに越したことはない。また、人間の平均的知的能力はそれほど芳しくないので、一定以上に複雑で難解な事象に際しては、杓子定規的な意思決定規範に脳死的に従うのが安定行動となる。そして脳死した人間が一定割合にまで増加すれば、社会全体は"社会秩序"を実現する。

脳死した人間は構造の奴隷であるとともに、構造の維持者(Stabilizer)でもある。彼らはいざとなれば、"構造の敵"に容赦なく牙をむくだろう。

ところで、認識制約下で人間はごく少数の対象に多大なエネルギーを注ぎ込むようになるので、大衆の統制が容易になる;このことは例えば、見るもの全てに興味を示す元気な子どもと、部屋で寝そべって受動的にスマホばかり見ている子どもとで、"手間のかからなさ"、"言うことの聞かせやすさ"、"未来の行動の予測可能性"を比較すればよくわかる。

認識制約性はときにプラスの効果ももたらす:ある対象への専心がもたらす深い認識はやがて構造全体を豊かにする公算が比較的大きい。

構造は

  • ​成員が知的能力を割り当てる対象を(実質的に)制限することで 
  • ごく限られた対象への認識が構造全体として深まるようにし 
  • その深化を構造維持の原動力として、次世代をまた育む 

というような原理に基いており、またそうであればこそ、構造として採用され、成立している。

構造に従うのか、それとも抗うのか

あなたがもし

  • ​構造の定めた「ご褒美」が魅力的であり 
  • 構造の定めた平均的人格(言い換えれば構造内の努力目標)に、自分もなりたいと感じる
  • ​もっと一般的にいえば、構造の規範と、自身の価値観とが矛盾しない 

ならば、(あなたが何を意図して生きているのかはさておき、)あなたと構造は相性が良い。その相性の良さをどう解釈するのかは置いておいて。

そうではなく反対に、

  • ​構造内で得られる報酬一切に魅力を見いだせず 
  • 構造内でもてはやされているどんな人格にも心酔・同調できず
  • ​​構造の規範に救われたためしがない 

者にとっては、

  • ​構造が定めている認識の制約 
  • ​構造が定めている価値序列(≒規範) 

障害以外の何物でもない。

そういう者は構造に深く入り込めば入り込むほど、構造の規範と自分自身の価値観との板挟みに苦悩する。

だからそういう者は、構造から独立するための諸条件を探求するしかない。構造に属しながら、構造の与えてくる認識への諸影響に抗うしかない。

構造からの影響を明晰にメタ認識すれば、そういう反抗は十分可能であると、個人的には感じている。