遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

くだらなさ=無理解の露呈

くだらなさとは、つまりは何なのか?

・くだらなさは「私個人が経験する機会に乏しいがために食わず嫌い的に嫌っているもの」に見出される

・くだらなさは「多様な状況および文脈において私の存在を脅かすもの」に見出される

・くだらなさは「観測範囲内の多くの人が関与を敬遠するところのもの」に見出される

・くだらなさは「かつて失敗を導いた、または、多くの場合失敗を導くことの確証がある原因性」に見出される

・くだらなさは「もはや機能を失い、人々の処理能力をいたずらに消費するだけの形骸化したシステム」に見出される

・くだらなさは「他者と自己の非対称性を悪い意味で強調するもの」に見出される

・くだらなさは「譲るわけにはいかない信念周辺に消し去り難く存在している、他者と自己の不一致性や利害関係」に見出される

・くだらなさは「私の認識の部分いずれをも活性化させないもの」に見出される

・くだらなさは「望ましい情念を私の中に湧き上がらせないことが判明しているもの」に見出される

・くだらなさは「かつて私がいかようにも受け容れることのできなかった対象に近接しているもの」に見出される

・くだらなさは「(様々なスケールの)普遍集合の要素として、その普遍集合への影響力が無視できるほど微小であることが認識されうるもの」に見出される

・くだらなさは「何かもっと素晴らしいものの劣化コピーであると感じさせるところのもの」に見出される

・くだらなさは「他律的で独自性に欠け、活力に乏しいもの」に見出される

・くだらなさは「政治的・経済的目的のための交渉材料」に見出される

おそらくまだまだある。

人々はどんな意味で「くだらない」と口にしているのだろう。

私が思うには

・「それを考慮しない私」の正当化(≒聖域化 / 安定化)を図った精神ないし心理が認識として現象させるもの

それがくだらなさである。

おそらく、くだらなさが認識内に生じた時点においては、脳はアトラクタ状態にある。

言い換えれば、くだらなさを感じる脳(≒認識作用)は低エネルギー状態に陥っていて、くだらないと感じるところのものに対する思惟はその働きを停止している。つまり「理解しよう」という意識が働いていない。

そういう意味で、くだらなさ(=「くだらない」という感情)とは

・無理解の露呈

である、と言えてしまうかもしれない。

つまりこういうことだ:

「くだらない」という感情は、"認識に必要とするエネルギー"に関する最小化問題の解としての世界認識に、必然的に伴うものだ;

世界全てを「くだらなくない」とみなせるのは無限の知性だけである。

有限の知性たる人間は、世界の大部分を「くだらなさ」の中に格納することで認識をやりくりしている。限られた「くだらなくないもの」に尽力するために。

だから私たちが「くだらない」と切り捨てる対象には、理解されていない点、考慮されていない点が多分に残されている。つまりは無理解なのである。

「くだらないもの」を理解・考慮しようとすれば、認識は一度"認識エネルギー最小解"から外れなければならない。つまり認識のためのエネルギーを増大させなければならない。それは怠惰な本性を持つ人間にとってはえてして厳しい営みになる上に、「「くだらないもの」にあえて時間を掛けるのは馬鹿らしいことだ」、なんて風潮も手伝う。

そういうわけで個々人にとっての「くだらないもの」は、意識的な注力のないかぎり「くだらないもの」として在り続ける。すなわち無理解は無理解として露呈されたままになる。


さて、以上のことを踏まえると、

・他人と自分の「くだらなさ」を感情的に比較すること、優劣をつけることは不毛である: それは生きていく上で何に重きを置くのか(、重きを置いてきたのか、重きを置かざるを得なかったのか)の違いでしかない。(ただし分析的な相互比較は対人関係を良好にしうるので大いに推奨される)

・「くだらなさ」は一概に悪いものでもない: それは人間の認識原理と個々人の人生とから導かれる"認識の局所解"の対応物であり付随物である

・「くだらなさ」を(一時的にでも)感じたくないのなら、平常時以上のエネルギーをその「くだらないもの」に費やし、何らかの認識の更新を試みればよい

・私たちは各々のくだらなさの局所性を重々承知するべきである

ことがわかる。