遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

V・E・フランクル『虚無感について』1

ジークムント・フロイトはかつて次のように述べたことがある。「たくさんの様々な人々を同じように飢えに晒したならばどうなるだろうか。その飢えが我慢の限界を超えて増大するにしたがって、個々人の違いは不明瞭になり、それに代わって、満たされない飢えを表現する同じ行動だけが生じるだろう。」しかしながら実際には、強制収容所ではその逆こそが真実であった。そこでは人々はますますその多様性を表してきた。獣性が現れたが、同時に聖なる姿も現れたのである。飢えている状態は共通でしたが、その人々の振る舞い方はそれぞれ異なっていた。実際にカロリーは重要ではなかったということである。
『虚無感について』(ヴィクトール・E・フランクル) p.215
私たちはともすれば欲求の充足具合客観的(外的)な条件づけが人間の振る舞いを、ひいては人間の意味を、完全に決めるのだと信じてしまう。しかし実際にはその真逆が真実である。あるいは、その真逆が真実であると信じて生きるべきである。あるいは、そう信じて生きることが人間には本質的に不可欠である。
ヴィクトール・E・フランクルの思想は、強制収容所という極限状態においてその理論の正しさが実証されたという点において説得性がある。更に、実証性を差し引いても、そもそも理論に整合性と一貫性、そして多くの哲学的・心理学的な見地からの反駁に耐えうることを感じさせる深みと温かさがある。
特筆すべきは、いかなる構造の、いかなる状況にある、いかなる能力の人間にも、フランクルの理論は十全に適用されうる点である。つまり理論は普遍性と柔軟性を備えているとともに、あらゆる差別的な観念から隔絶している。
「私たちの存在の内実はそれが組み込まれた構造に依存する」という実存から派生する無力感 = 虚無感から、私たちを解き放つことのできる理論である。
『虚無感について』は、(数ある哲学書のように)純粋な(えてして私たちの生の何の足しにもならない)観念をこねくり回す類の書物とは一線を画しており、私たちが今まさに必要としている知見を多分に含んでいる。虚無感に悩まされるすべての人に一読をおすすめしたい。
 
 
 
冒頭に引用した部分はV・E・フランクルの思想の本質的な部分から若干ずれているが、なんとなく、日本の現状とのをリンクを見出したため引用した。
様々な数字が「日本は落ち目である」と示す今日、そんな現実の厳しさとは裏腹に、人々は状況にへこたれるどころかむしろ多様性を増大させている(ように私にはみえる)。フランクルは人間のそういう意味側面を態度価値と呼ぶ。
ある人の外部環境が悪化する状況でこそ、その人の考え方や価値観、意味の創造力が真に試される。人間の意味を本質的に左右するのは、その人の苦悩の仕方 = 苦難への態度である
ここにマゾヒズムを見出す人がいるかもしれない。つまり「人間は苦しむからこそ意味がある、だから苦しめ」といったニュアンスを見出す人がいるかもしれないが、フランクル

マゾヒズムの危険はありません 。なぜならば、潜在的な意味は、欠くことのできない、免れることのできない、避けることのできない苦悩の中にしかないからです。

 と否定する。だから「できるだけ多く苦悩すべきである」だとか、「苦しみはそれ自体、無条件的に価値あるものだ」といったニュアンスは一切ない。

重要なのは、避けることのできない苦難に対してどういった態度をとるかであり、その態度如何で、個人固有の意味が発見できることである。

『虚無感について』では終始、

  • 人間は意味を問う存在ではなく、人生に問われた意味に答えるーーーしかも責任を持って答えるーーー存在である

ということが繰り返される。

(実存的な)意味を自分で考えることができる、という点で人間は本質的に自由な存在なのだが、責任の伴わない自由はただの自分勝手である。

2に続く