遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

「自分側が優れている」がいかに空虚かについて

例えば、男女の特性の違いに関して、さまざまな意見がネット上にはありますが、それらのうち殆どに見いだせるのが自己擁護性です。つまり「自分側が相手側より(絶対的に)優れている」という旨においては、不思議なくらい皆同じですね。逆の論調が強まってもいいはずです: 女性を賛美する男性、男性を賛美する女性が多数現れてもいい。しかしそのようなケースはどちらかといえば例外的です。この時点で、この対立構図の空虚さが見えてきます。

男性も女性も、おそらく主観的には同じこと、つまり「自分の欠点を棚上げして相手の欠点を洗いざらいにすること」、そして「もっとも利用が容易なレッテルに日頃の鬱憤を押し付けること」をしているだけということです。男性・女性というレッテルを用いて相手側の存在を否定すれば、「日本で私(たち)よりダメな存在が6,000万人も生きている」と悦に入ることができますね。しかも、人口の半数もが「不完全で劣っており、間違っている存在」に占められていると認める以上、自分が悲劇の主人公/ヒロインであることにもはや疑いはなくなるわけです。そうなれば「自分が不幸であることについて、自分に非はないのだ」と精神を安定させることができます。お手軽なことこの上ないですね。

性別の違いこそあれ、人間の憐れな性質(=自己欺瞞)に屈従しているという点では、男性も女性も同じ穴のムジナであるはずです。

これに対する反論としては、「そうではなく実際に相手側が不完全で、自分側は被害者なのだ」という「経験に基づくたしかな実感」があるでしょう。しかし、相手側が不完全であることの非は、本当に相手側にあるのでしょうか?その不完全さは

  • 社会構造
  • 人間という機構

に起因するものである可能性はないでしょうか?つまり、もっと上位の、もっと根源的な、もっと根本的な目を向けるべき事象があって、性別の違いなど、きわめて皮相的な些事ではないのでしょうか?私はそんな気がします。

差異化と統合という相反する概念があります。「私は人とは違う」という気持ちの強化が前者、「私と人とは深いところで共通している」という気持ちの強化が後者です。これらは人間の生に不可欠な心理作用であり、重要なのは、差異化作用と統合作用を均衡させることです。自分と他者とは違いすぎても同じすぎても駄目、それが人間であり、その均衡が崩れると、精神は不安定になるようです。

文化とは、社会の各成員の差異化と統合を均衡させるために先人たちが洗練させてきた巧妙なシステムですが、今日その効力は失われつつあります。現実に対する無力感が、文化に対する不信感に転化しているからです。となると現状として、1人1人が差異化と統合の均衡を意識して、自分で実現させていくしかないんです。

男女対立というのは、極端な差異化のし合いです。「自分側は相手側とは違う」をそれぞれが主張し合うので、差異化ばかりが進み、統合作用と均衡しようがないんですね。 男女対立に限らずあらゆる対立に言えることですが、人間という悲しい器を共有している、自分も相手も人間という機構に振り回される被害者である、という認識を深めれば、今よりは統合作用が強まり、均衡状態に近づけると思います。

ちなみに被害者 - 加害者の対応関係でいえば、加害者は創造主であり、物理法則であり、ヒトの生物的機構です。そして人である限り、本質的には例外なく被害者なのだと私は考えます。この「被害者」というのは、表層的な「社会的弱者」という意味より、もっと高次なものです。人間が「他者との相対的な位置づけから自分の存在を確立させようとする」という、拭い難い性質を持ち合わせること、それが生まれながらに不可避に与えられた「被害」であり、そういう意味では誰もが被害者です。たまたまこの被害の被害性から注意を逸らせた場合に「幸福」を謳歌することができるのであって、被害者であることそれ自体は永続するものと思われます。

そういう事情から、世界には「自分側を特別視する」、区別するための言葉と観念が溢れかえります。その空虚さは、言葉を吐き出す本人には気づきづらい。優劣や勝敗という枠組みで世界を捉えても、自分の納得いくように世界を捻じ曲げて、それで終わりです。いくらでも「優劣」「勝敗」の定義を捏ねくり回せばそれで済むわけですから(何より厄介なのは、そうして作り上げた認識が如何に自分本位の歪んだものなのかを自覚するのが極めて困難であることです)。得られるのは歪めた本人の仮初の精神の安定に過ぎません。それは本人にとっては必要なことかもしれませんが、人類全体のことを考えれば、間違いなく進歩の妨げなんです。

そういう人間が多い社会においては、人間の醜い性質が、遺伝子と教育を介して次世代の人間に色濃く受け継がれ、醜い争いが同じように繰り返されます。実際、そういう負のサイクルを人類は未だに断ち切ることができずにいて、だからこそ未だに人類はこれほどまでに醜いのだと思います。

人間が暗黙のうちに従ってしまっている行動原理、「生」原理を克服しない限りは、その醜さの克服も望むべくもないでしょう。

とにかく言いたいのは、「自分側が優れている」を、対立する勢力がお互いに主張する構図の延長線上には、残念な歴史の反復しかないということです。

そして出来る事なら、人類にとって新しい歴史を歩むことが望ましい。世代を重ねていく中で、「人類が発現しうる愚かさ」を虱潰しにしていければ、未来の人類はやがて愚かさを克服できるかもしれないからです。