遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

攻撃性の昇華について

人間の攻撃性の一部(あるいは全部)の発露が無条件的だとしたら、どんな慈善活動にも、どんな忍耐にも、どんな善良さにも本質的な意味はない。それらのプラスの影響は、いずれ生まれてくる新たな個体の新たな「無条件的な攻撃性」に、「悪意なく」塗り潰され帳消しにされてしまうからだ。とめどなく湧く泉を、柄杓で枯らせようとするようなものだ。

つまり攻撃性が人間に除去不可能に備え付けられた本能的装置であるならば、攻撃性に満ちたこんな世界にも諦めがつく。その場合の生きる道の考え方としては「なるべく攻撃性を回避する」「なるべく攻撃性を発露しない」、その2点に尽きる。

そうではなくて、人間の攻撃性の発露に条件があるのだとすれば、その条件さえ取り除いてしまえれば、誰も攻撃性を発露することも、差し向けられることもない、優しい世界が実現されるはずだ。

攻撃性の例を挙げてみると、たとえば八つ当たり報復はいずれも身近な人間の攻撃性だが、八つ当たりは本来関係のない第三者を新たに攻撃性の被害者として巻き込むのに対して、報復は攻撃性のサイクルが(理屈のうえでは)閉じている。つまり、この2つは同じ攻撃性の一形態でありながら、攻撃性の実効範囲が開放系なのか閉鎖系なのかで異なる。八つ当たりが開放系である理由は、八つ当たりが八つ当たりを招くことだ。そもそも事の始まりである「八つ当たりされたこと」の理不尽さと不当感が、攻撃性の理不尽な発露と行使を正当化する方向へと精神を変調させる。「私は八つ当たりされたのだから、八つ当たりしてもよいのだ」が、残念ながら相当数の人間の精神構造ではないだろうか。

悲しいことに、人間は攻撃性を向けられると、防衛反応として攻撃性をその精神に宿す。これは生存確率の向上と引き換えに人間の得た道徳的な欠陥なのだ。

そして、あとはその攻撃性が自分に向くのか他者に向くのかの違いしかない。

自責の念や良心の呵責というのは、あてどなく自分自身に向けられた自分の攻撃性に他ならない。事情はどうあれ、他人に向けられない、行き場のない攻撃性がひとまず矛先とするのが自己なのだ。皮肉にも、生き延びるための機能のはずの攻撃性が、自分自身の生存を危うくさせる。

自然界では、八つ当たりも報復もきわめて自然な攻撃性の形だ。外向的な攻撃性を躊躇し、また阻害されるのは、人間だけだ。結果として自傷行為 = 攻撃性の内向 に走りうるのも人間だけだ。

「だから人間は、自然を倣って思う存分攻撃的になろう。」とは勿論ならない。社会の秩序の維持を考えた上で攻撃性の自制が不要であるとは考えにくい。

しかし、かといってあらゆる攻撃性を自制することは、強者に自由な搾取を許可することに等しい。だから報復としての攻撃性は秩序維持、不当で不必要な奪略への抑止力として留めておきたい。

害悪なのは八つ当たりなのだ。八つ当たりが世界を優しくなくしている。それは

・八つ当たりは連鎖し、八つ当たりの実効範囲は開放系になる点

そして

・八つ当たりされる第三者は不当な攻撃性への防衛反応としての攻撃性の増大を強いられる点(その攻撃性を持て余した場合の一例が自傷行為である)

が大きい。

 

 

以上の「攻撃性」の用い方では、私の意図するニュアンスがほとんど伝わらないと思うので、攻撃性の例をさらに挙げてみる。

八つ当たりや報復について書いてきたのでどうしても「反撃」、「防衛反応」という感じが出てしまったが、もっと広く、「自分以外の何かしらの存在を利己的に変調させること」、「しかもその変調は、攻撃性の対象にとって負の価値であること。」そういうものは全て攻撃性として捉えられると考える。

人は母親のお腹を痛めて産まれてくるとき、最初の攻撃性を発露している。そうしなくては産まれて来れなかったという意味で利己的なのだから。

食事をして生きながらえることも、紛れもない攻撃性。

家族のささいな会話の中のささいなすれ違いも、お互いが独りよがりに意志を貫こうとした結果なのだとしたら、それは攻撃性のせめぎ合いなのだ。

最近是非が問われている偏差値教育においても、攻撃性はある。高偏差値を取るには、それと表裏一体となっている「低偏差値」というラベルを誰かに貼り付け、その人生を変調させる必要がある。誰かは必ずそうさせられる。

思うに、一人ひとりの「自分の攻撃性への自覚」、言い換えれば「自分が世界を変調させている、自分が世界を害しているという実感」が不足すると、世界全体としては優しくなくなる。

勿論、世界の優しさ/優しくなさというのは私の個人的な観点にすぎない。私が勝手に「世界が優しくない」と嘆いているにすぎない。

「世界が優しくなったらどうだというのだ?」「世界が優しくないとして、今世界が人間個々に与えている恩恵を、優しい世界が与えられるのか?」などという問いにはまるで答えられない。

つまりこれはきわめて次元の低い、好き嫌いの話なのだ。

私は優しくない人間が嫌いだ。「私に優しくない人間が嫌いだ」と言っているのではない。優しい世界を目指さない人間、自分自身の不安の払拭・欲望の充足のためなら攻撃性の発露をためらわない人間が嫌いだ。

しかしこの嫌いさを面と向かって言ってしまえば、心に保持してしまえば、それは攻撃性の発露になる。それはなんの解決にもならない。そうなってしまえば、私の懐の攻撃性が少しなくなる代わりに、また再び誰かが八つ当たりとしての攻撃性を引き受けるだけだからだ。

だから攻撃性は昇華されなければならない。これがさしあたっての私の答えになる。