遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

考慮の有限性と順序性、社会問題

考慮の有限性

  • ある社会問題の解決が保留状態にあるのは、その解決の必要性を確信する成員の構成比が小さいからである。もしその社会問題に、十分に多数かつ質の高い、成員による考慮が集まったなら、社会問題解決に向けた運動は始動・本格化するはずである。ゆえに社会問題が放置されているのは、考慮の総和の不足による。
  • ところで社会問題への考慮はどのように形成されるのか。「成員が、ある社会的な問題によってみずからが実害を被った、と認識する」というのがもっともありふれた契機となっているだろう。成員にとって、「この実害は明らかに自分自身に根ざすものではない」と解釈された場合、つまりその実害にある程度の理不尽さや不条理さ、不当さや非合理性が感じられた場合に、それは社会問題として認識されうる。この時点からこの個人は社会問題を考慮し始める。ーーー自身の生の改善、ひいては自分自身と境遇(立場)を同じくしながら、同様の社会的な問題に苦慮を強いられている成員の、生の向上を願ってのことだ。ーーーこの際みいだされる心理学的、社会学的な精神の動向はこの際どうでもよい。それより、考慮という有限の資源が特定の対象( = 社会問題)にあてがわれるようになるという、変化そのものにここでは注目したい。

人間の考慮は有限、つまり無限でない。その有限性は人間の寿命の有限性であり、脳内の化学反応の最大数の有限性である。

個々人は考慮の有限性の中で、対象に向ける考慮( = 注意力)を有効に配分しなければならない。

上で「考慮の総和」と書いたように、社会の成員の考慮をすべて足し合わせたものが社会全体としての資源となる。(考慮の相互作用分はこの際どうでもよい。)というのも、考慮されないことがらはそもそも現象へと転換され社会に現れることもないからである。つまり考慮は、あらゆる現象のきっかけ、スタート地点、原因になっており、しばしば社会的な規模の現象を引き起こすという意味で、社会の共有財産( = 資源)とみなせる。

ある社会問題を社会問題として認識し考慮する成員に比例して、この「社会問題に注ぎ込まれる資源」も増加することになる。

いま、この考慮の社会的な総和の最大値を100と仮定して、両極端な状態を考えてみる。

成員だれもに考慮され尽くされる社会問題は、遠からず解決する。たとえば致死性の伝染病や飢饉といった問題は命に関わるので、社会全体が総力をあげて解決に向かう。これは考慮という資源が 100 利用されている状態。

そしてきわめて少人数の成員にしか考慮されないような問題は、もはや「社会」問題ではない。それは単なる個人的な問題だ。このときは考慮という資源が 0 利用されている状態といえる。

この両極端の中間状態が、いま実際に取りあげられている社会問題に対する、さまざまな問題意識の実態である。すなわち、考慮という資源が20だとか30だとか、中途半端に当該問題に差し向けられているために、解決への目立った動きが生じない。かといって問題意識が影を潜めるほどそれは個人的問題ではない、ということだろう。

社会問題解決のために、個々人にできることはなにか

さて、以上のような考慮の有限性を、「自分にできることは何か」に落とし込んでみたくなる。私としては

  1. 考慮の量の最大化
  2. 考慮の質の最大化
  3. 他人の自分に対する考慮の最小化

を打ち出したい。

1. 考慮の量の最大化

考慮を定量化できる、という(おそらく誤っている)見方に立てば、単純に次のことがいえる: 「ひとりひとりが考慮の量を、つまり"集中して物事を考え、諸問題の解決方法を試行錯誤する"ために配分する(割く)注意力の総和を、最大化する」ことに注力すれば、社会全体の考慮の量が増える。

しかし言うは易く行うは難しであって、ひとくちに「たくさん考慮する」と言っても、「そもそも何を考慮すべきなのか」「そもそも社会はどうなっているのか」「そもそも上手に考えるとはどういうことか」など、副次的で実際的な問題の数々がここから派生してしまう。しかもそれらの問題もまた、考慮の有限性の中でやりくりされた上で配分される、ある一定量の考慮を私たちに要求するのである。これでは堂々巡りもいいところかもしれない。

しかしそれでも、個々人が考慮を最大化するという観点をもつことの有意義さは失われない。なぜなら、考慮の最大化は意図せずとも達成されるほど容易かつ単純な目標ではないからである。

ゆえに考慮最大化の観点を備えていない人間と備えている人間の違いは小さくない。

2. 考慮の質の最大化

喫緊の問題ではない、放置してもそれほど差し支えない、問題解決の順番を入れ替えても大きな問題はないと判断できる、または順番を入れ替えることで明確なメリットがある、......。複数の問題を扱う際には、その解決の順序が重要になる。

ここで気にすべきは考慮の順序性である。 いまAという問題とBという問題があり、どちらもそこそこ解決に急を要していると仮定する。

A、Bがどんな問題であれ、大抵の場合は問題解決の順序によって結果が変わる。つまり、複数の問題を逐次的に解決しようとしたら、まずは、もっとも有効な結果を生じさせる解決の順序 ≒ 考慮の順序 は何か、が明確にされ、そうしてから社会全体として解決に取り組むべきなのではないか。

/* ここに2つの問題がある: 「結果の有効さ」はどう測られるべきなのかという統一的な基準について、合意形成がなされるわけがないこと。そしてもうひとつは、結果の有効さを比較する際に、そもそも解決方法を行使した場合の結果が、ある程度以上の妥当性を伴って、正確に予測されていなければ有効さを比較しようがないこと(そしてそんな予測は限りなく不可能であること)。

ここではこういう問題が、仮に解決されたとしてみる。 */

要するに個々人が、数ある社会問題の中で「いま本当に最優先で、社会的資源(考慮もそのうちのひとつ)を集中投下して解決すべき問題」を判断できるだけの確かな良識と正しい意志を持ち、自分の保有する考慮を最適配分できるというのが理想だ。

そこに向かう努力を、私は考慮の質の最大化と呼ぶことにした。

このことに関連して、私が常日頃思っていることがある。それは「社会問題としての問題提起を正当化するものはなにか?」ということだ。

今までのところ、私にとって一番妥当だと思われる答えは、「"社会問題が社会問題とされるところの社会的不利益"を実際に被る人たちによる"現場からの悲鳴"のみが、正当な問題提起たりうる」だった。

しかしこの答え方だと、"本当に社会に原因のある悲鳴"と、"ただ単に愚かであるために上手く立ち回れない人の悲鳴"が区別できない。そして後者を社会的資源をもってして救うことは社会にとっての損失(非効率)である。

だから私は考えを改めた。

「考慮の質の最大化」について努力を怠っている者は、社会問題としての問題提起の正当性をもたない。なぜならそういう者は、「自分の現状がどこまで自分のせいなのか」を厳格に究明する姿勢に欠ける( = 考慮の質が低い)ために、彼の訴える問題がどこまで社会に根ざしているのか、彼自信にすらわかっていないからである。

くだけていうと、「ひたすら考え尽くして、かつ考え方の質が高くなるよう努力して、それでもわたし個人にはどうにもできませんでした、だから社会で助けてください」という悲鳴だけが、社会的に汲み取られる、そんな社会であって欲しいと思う。

それ以外の悲鳴は救うだけ無駄、といっても個人的には言いすぎでないと思う。なぜなら、考慮の質が低い人間は、おそらく一度社会的に救われると味を占め、社会的資源を食い尽くすことになんの後ろめたさも感じなくなるだろうから。

3. 他人の自分に対する考慮の最小化

あくまで考慮の有限性という観点からいえば、組織が画一的になればそれだけ考慮の効率性が高まるので、それだけ他の問題に差し向けられる考慮の量が増える。

たとえば他人に会うたびごとに自分の性格をランダムに豹変させるような場合を想定してみよう。すると他人は自分に対しいちいち注意力を割き、そのたびごとに固有の対応方法を新しく考慮せねばならなくなる。

反対に、一貫性をもった人格で接することを心がけるだけで、他人の自分に対する考慮は激減する。

要するに、他人にとって自分が考慮に値しない存在、考慮する必要のないほどに信頼のおける存在、秩序的な存在であることを心がければ、組織規模での考慮の最大化に貢献できる。

このような観点も、考慮の有限性の認識を抜きにしては生まれないと思う。

まとめ 

成員が賢ければ、社会問題は賢く解決される。成員が愚かだと、社会問題は解決されないか、されたとしても解決方法には改善の余地が残される。

そういう違いは、個々人の考慮の量、および配分の巧みさから生まれる。だから個々人は賢くなればなるほど、社会問題の解決に少なからず寄与できる。

そして賢くなって初めて、自分の抱える問題が本当に社会問題なのかどうかがわかる。

「そういう段階に至るまでは、社会問題としての問題提起は控えるべきである。」......といってしまうと抑圧の色が濃いので言い換えると、「同じ問題意識を持てるのは、同じくらいに賢い人間である。だから同じ問題意識を持つ人が見当たらないのなら、自分はものすごく賢いか、ものすごく愚かかのどちらかである。さしあたり後者なのだと捉えておくのが賢明だろう。なぜならものすごく愚かであることは簡単なのに対して、ものすごく賢くあることは途方もなく難しいから。」