遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

観念的な自己複製

共感してもらうことにも共感することにも快感情が伴うが、この快感情は自己複製可能性の感受に根ざしている。

私たちは(先天的にせよ後天的にせよ)、群れを作るのが生存に有利であることを知っている。

そしてその群れを統合するのが「共感性を伴う規範」であるが、そもそもその規範の規範性を審査するのは「自己複製可能性」である。つまり、群れは自己複製欲求ありきで組織される。

人間は自分が趨勢に乗れるとみなせないような組織には長期的に属さ(せ)ない。どんな綺麗事で取り繕おうとも、個体間の関係性は「生存競争」に終始している。

この「生存競争」は具体的、つまり生殖的な意味から、抽象的、つまり観念的な意味にまで及び、どの抽象度の競争が表面化するかは時代による。現代は言わずもがな、「観念的生存競争の時代」といえる。

現代人の行為の底部には、観念的に自分を複製したいという欲求が流れている。

くだけて言うと、「自分が人生を切り崩す際に用いた概念を、他の誰かにも用いてみてもらったうえで、その概念が相手の人生において機能したという事実の報告を受け、自分の存在(の影響力)の拡大、つまり自己複製の成功を感受したい」という欲求である。

これは生殖行為が平均して高くつくようになった現代人の逃避傾向(防衛機制?)としても捉えられるが、IQが時代の進むほど高くなるように、人類の必然的な知的変化の方向性なのかもしれない。

以下は恣意的な一般論。

  • 観念的自己複製を強力に促進するものとして、権威、経歴、名誉や名声、地位、経済力、すぐれた容姿、メディアによる扇動が挙げられる。一言で言えば、社会的身分が高いほど自己複製は容易かつ効率的になる。
  • 観念的自己複製とマズローの段階欲求の高次欲求は近いものがある。
  • 自己複製の成功に動機づけられる人間にとって、自分と同質な人間ばかりいる組織に属しても旨味がない。その意味で、自己の明確なアイデンティティが確立されている限りにおいて、自己複製は志向される。
  • 社会を自己複製の成否を競い合うパワーゲームとして捉えると、既に自己複製に成功している人間ほど、更なる自己複製を成功させやすい。自己複製という観点からでも格差拡大は進んでいる。
  • 私たちは先人の複製である。ただし数え切れないほどの先人達の良いところどりという意味で。地球上で今も「観念的な遺伝子」(リチャードドーキンスの『ミーム』)の淘汰が進んでおり、未来人は私たちが相互作用し合い淘汰の過程を経過させた遺伝子から構成される。だから私たちの姿勢が歴史の未来を決定するのであり、その意味からは多数派の絶対性は崩壊する。現代の多数派が未来における最適解とは限らないからである。
  • 観念的自己複製は、生物学からのアナロジーを大いに利用できる(現にしている)。どんな人間であれ、その脳内に生じた概念はその人生においては無駄ではない。ただ、人間一般には無駄なこともあるというだけ、つまり観念的遺伝子として劣性というだけ。観念的遺伝子にも優性と劣性があり、遺伝子間の相互作用によってすぐれた観念が打ち消されることがある。
  • すると、歴史を重ねるほど人類が観念的に賢明になる、というのが実は楽観的な憶測で、妥当性はどこから引っ張ってくるのかを解決せねばならないことがわかる。
  • 遺伝子と違って、観念的遺伝子の「遺伝子組み換え」は容易であるがために、その組み換えの腕が如実に問われ、淘汰も迅速に進む。