遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

魅力の正体

還元主義に対しての創発性。

私が他者に感じる魅力は、創発性なのかもしれない。

つまり人間的魅力とは個人の性質ではなく、関係性の性質なのかもしれない、ということ。

私にとっては魅力的な誰かが、他の誰かにとっては魅力的でないという現象も、話してみたら嫌な人間だったなんて現象も、時代ごとに魅力的な人間像が異なるのも、それなら自然に説明がつく。

私が誰かを魅力的に感じるのは、(観念的にせよ社会的にせよ)彼と自分の間になんらかの関係性を見出すことができて、かつその関係性が「魅力的である」ときに限る。

従来の考え方においては、人間関係に対して抱く魅力が人間に対して抱く魅力に還元されているわけだが、よくよく考えると「魅力的に感じる」のは私なのだから、その魅力の程度には私の性質が反映されていなければおかしい。

だからといって勿論、他者の魅力が自分の性質のみに還元されるわけがない。「魅力的でない」他者もまた、私には認識される。

ということは残る可能性として、私が感じる魅力というのは彼と私の間、彼と私の存在を橋渡す観念、つまりは関係性に宿ると考えても無理がある感じはない。

仮にそうであるとすれば、人間的魅力を決定づけているのはその判断者、つまり誰かしらの主観であり、被判断者からその魅力に働きかけをしようとする場合、注力すべきは個人的性質ではなく判断者との関係性である。

ところが、関係性を左右するのは、今度は正真正銘、個人の性質であり、その関係性が魅力の程度を左右する。

つまり人間的魅力は、直接的には関係性に、間接的(根本的)には個人の性質に左右される。これでは結局何も言えたことにならないではないか。いや、そうでもないかもしれない。

例えば、私の目の前の机は、脚と天板から成る。私がこの机を購入した理由はその機能性とデザインだ。つまりはこの机が私にとって魅力的だったのだ。

この魅力の正体は突き詰めると、「私の色の好みに適合する」「私の背に合う」「私の部屋に合う」「私の求める広さがある」「私が机に求める耐久性がある」「私のサイフにとって適当な値段である」というような、私との関連において全て説明されてしまう。もっと無意識的で深遠な、あるいは生理学的な、不可知な理由もあるかもしれない。しかし、少なくとも意識的に確認できる範囲においてはそのようになっている。

一方で、この机の客観的な性質(高さ70cm、茶色、木製など)を取り出してみると、明らかに万人にとっての「机としての魅力」として確定させることのできる要素はない。

机としての魅力は私と机が両方存在して初めて生じる(かにみえる)もので、実在性はあやしい。

この机からのアナロジーとして、私にとっての知人が私にとって魅力的であるとして、私はその魅力から、有用性や利己性をどこまで排除出来るのだろうか。言い換えれば、私はどこまで知人それ自身の「人間的魅力」を捉えうるのだろうか。もしかしたらそんなものは絶対に感知できないのかもしれない。あるいはそもそも実在しないのかもしれない。

また、実際に知り合ってはいない他者に対して感じる人間的魅力についても同じことが言える。たとえば芸能人と一般人の間では、テレビ番組の出演者と視聴者という関係性が成立しており、芸能人の人間的魅力もまた、この関係性の中に発見される。国民の芸能人の好みが偏るのは、関係性の(主観的な)様態が偏っているからである。

というわけで、私が人間的魅力と呼んできたものは、どうやら個人には還元されず、他者の魅力について考える際には、自分自身の認識の歴史および人格形成過程をも加味しなければならないらしい。