遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

虚勢への戒め

なにか特別なことを書こう。なにか良いことを言おう。なにか自分以上のものを創ろう。

そういう力みは奏効しない。

何らかを発すること、それは自分を生き映すことなのだから、発するものは既に準備されていなければならない。

私たちの言葉や作品はすべて、私たちの人生以内でしかない。

私たちが懸命になるべきは、自分自身の人生を拡大すること、そしてその拡大分を含め、できる限り損失を少なく、人生を言葉や作品に翻訳・変換することである。それ以上の可能性について私たちには閉ざされている。その外側は望むべくもない。人生以外が言葉や作品、生き様に反映されることはない。

  • だから無理に肩肘張って生きたところで徒労に終わる。虚勢を張れば最初のうちは自分を大きく見せることができるかもしれない。しかし長期的に見れば虚勢の効果は0に収束し、自分自身の外観は自分自身そのものに収束する。関わり合いが長くなればなるほど私の本質は相手に深く知られ、虚勢は虚勢として正しく発見されるからだ。ゆえに虚勢とは徒労である。また社会的にそうならなければならない。虚勢が虚勢として発見されない社会は徒労の多い社会だ。
  • 自分には才能があるのか、自分はどういう人間なのか、そういったことを考えることに短期的な意味ならあるかもしれないが、長期的な意味はない。偉大な人間は偉大な場所へ、卑小な人間は卑小な場所へ、そしてその中間の人間は中間の場所へ勝手に行き着く。偉大な人間は偉大な場所を苦もなく目指せるからこそ偉大なのであり、蓄積が伴うから当然結果も出る。卑小な人間には偉大な場所がそもそもわからないから目指しようもない。「欲するということを教えることは出来ない」とはよく言ったもので、ある人間を知るには彼の欲求を知るのが早い。私たちにとって欲求とは本質的である。「私たちは相異なる人間である」というのは、要は「私たちは相異なるものを欲している」といっているに等しい。行動や発言は恣意的に世間の影響を受けることもあるが、欲求はそうではない。能力や性格は後天的に訓練できるが、欲求はそうではない。私たちがなんらかの判断を下す時、欲求にそぐわないものにはあまり近づかない。つまり、劣悪なもの近辺には劣悪な人間しか居ない。
  • ここからひとつの文章術が導き出される。「心底思っていること」を書くのがよい。そして、文章を書くにあたってできることは、それ以外にはほとんど残っていない。それ以外のことをしてしまった結果が駄文である。良い文章が書けないのはなぜか?単純に、思っていることが良くないからであって、書き手の人生が良くないからである。文章の良さを高める文章術などない; 仮にあったとして、その「良さ」とはあくまで読み手側の個別的な良さでしかありえず、普遍的でない。繰り返しになるが、私たちの発信の最高到達点は人生そのものである。
  • そしてつくづく思うのだが、素晴らしいものというのは「心の底から発揮される頑張り」から生まれる。そうではなく強制力の介在する発信はえてして劣悪だ。ーーー能動性、自律性、一貫性、非迎合性、誠実性、過程性、、、素晴らしさはそういうものと関わり深い。卑小なものはことごとく逆をいっている。受動的で他律的で一貫性がなく迎合的で、誠実さはむしろ疎まれ、結果主義的なにおいがこびりついている。こう書き出してみれば素晴らしくなりようがないことも気づかれようものだが、不思議な事に劣悪なものは劣悪なものに一直線で向かう。「欲するということを教えることは出来ない」はここでも示唆的である。根本的に欲しているものが異なるから、そういう生の間にみられる差異も根本的になる。
  • そういうわけだから、各自「これは素晴らしい欲求だ」と思えるものを貫くのがよい。その欲求を生涯一貫させるがよい。そしてそれ以外にできることというのはほとんど残されていないし、したところで偽物くささがこびりついて離れず、周囲にも未来の自分にも迷惑なだけだ。結局、自分の心に従えない人間にロクな結果は伴わない。ただし自分の心に従えば結果が保証されるわけでもない。ここに人生の非情さ、理不尽さがある。