遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

肩書きでは何もわからない

肩書きでは何もわからない。

こんな当たり前のことですら、人間は理解して行動に反映させるにあたり努力を要するし、その前段階として、自分自身の行動が偏見に支配され影響を受けていることに気付かない期間を平然と経てしまう。

例えば東大の凋落。僕はその原因を社会全体にみる。社会は東大生にあぐらをかかせすぎだし、東大生はそんな社会であぐらをかきすぎである。

一般的に東大受験は難しいとされているがそれは客観的な話で、一部の東大生にしてみれば東大合格は必然、つまり楽勝だったわけだが、そうして楽に得た立場が社会では普遍的に手放しに好評価を得る。そういう社会が東大生の実績主義を溶かしていく。すると社会人としての東大生の生の基盤は「東大生であること」に集約されがちである。そういう精神性は、実績や生産性、現実の向上に対して真摯に向き合う姿勢へと連結されにくい。

言い換えるとこういうことだ。「肩書きがアイデンティティ形成の核である限り、実績を追い求める気持ちにはなりづらい。」

以上のことは東大生をあえて否定的に捉えただけで事実とは限らないし、東大生を否定したくもない。そうではなくここでは、東大生の卓越した能力を社会が押し込めている可能性に触れたいのだ。過大評価されればその立場に甘んじようとし、努力を怠りがちになるというのは大部分の人間に当てはまる傾向性だ。

僕が個人的に望ましいと思う社会は、東大生(というか大学生一般)に対して即座にその将来設計を問うような社会である。つまり、「良い大学に入れば将来安泰だ」という気の緩みの生じる余地が一切ない社会だ。大学は徹底して目的ではなく手段であることを社会全体が知らねばならない。

もちろん東大生ともなると、そういう自分の側面を自認し次第切り屑すくらいの頭の良さはあるのかもしれない。しかし社会がそういう謙虚さの発現を、本来より過度に強力に押し込めているのではないか。

肩書きだけでは何もわからないことは、東大生という肩書きですら例外ではない。事実、東大(卒業)生は一般人のステレオタイプから乖離した生活を送る人も多い。その選択が意図的なのかどうかはわからないが。

要するに人々が大学という存在を間違って捉え、従って東大生という存在も間違って捉えられ、そういう誤認識の連鎖のひとつの区切り目が大学ランク低下という現象なのであって、その原因は東大のみにあるのではない。

思うに就職活動の学歴偏重は日本の癌のひとつだ。このしわ寄せが中高生や就活生の自殺だし、それすら氷山の一角で、東大生以外は社会に出てからも学歴に後ろめたさのようなものを感じ続けるし、東大生は東大生で、本当に養うべき姿勢から目を逸らされる。この癌はどうしたら根治できるだろう。

ひとつには例外パターンがもっと周知されるべきである。高学歴といえども気を抜けば堕落するし、社会人失格に到るルートはそこら中にある。ふたつには学歴とは無関係な成功の周知および、そうした方向への誘導。つまり大学受験突破が唯一絶対の目的である教育が改革され、「良い大学からの良い生活」が唯一の道であるかのような錯覚が取っ払われてしまえばいい。みっつめには、しょうもないメディアの規制。言論の自由にかこつけて、アクセス数さえ稼げれば良いと言わんばかりに学歴不安を煽るゴミメディアが後を絶たない。なまじアクセス数が稼げてしまうようだから質が悪い。このことは、それだけ人々も不安で、「肩書きさえあれば安泰」という思想に縋り付きたくもなるということなのだろう。しかしその結果が現状である。よっつめには、「良い大学からの良い生活」の先にあるものを見極めることの必要性の周知である。これは自分の欲求の再認識ともいえる。われわれ1人1人が「自分は何をしたいのか」を塾考し、深く理解しさえすれば、人間の多様性を考えれば、多くの人が高学歴を目指すなんて社会の異常性が浮き彫りになる。

とにかく「肩書きでは何もわからない」ことが周知されればされるほど、不当で不要で不遇なレッテルは一掃されるはずだし、そのことの好い恩恵にあずかれるのはほぼ国民全体である。