のべつまくなし

自称本の虫。INTP型。

客観的思考への3つの困難性

客観的思考はどうしたら出来る?

自分という存在からなるべく離れた所で( ≒ 客観的に )思考するにはどうすればいいか?これは多くの人にとって重要なテーマだと思う。

客観性を損なうもののひとつはレッテル貼りだ。

たとえば僕は気持ち悪い理系大学生男子だが、Aさんが僕に対して「これだから男は嫌いだ」「これだから大学生はだめなんだ」「理系は気持ち悪いな」という風に一般化したがる、というのは早とちりだ。Aさんが嫌いなのは僕であって、僕がだめなのであって、僕が気持ち悪いのだ。

しかしAさんが僕の他に気持ち悪くいけ好かない理系大学生男子を数人知っていた場合どうだろう?Aさんは自分の言い分について、その人数に比例して確信を強めるだろう。認識の原理として、反例のない数多くの同様な現象は、相関関係として確定したがるからだ。

レッテルを貼りたくなる気持ちは人の普遍的な認識形式によるものだから、普遍的なものだ。

確かにレッテル貼りをすると楽だ。いま、初対面の人と交流しなければならないとする。素性が知れない相手にある種の属性を見出したら、利用可能なレッテルがある場合、それに基づいて相手の性質を予想できる。すると行動の予測可能性が高まる。行動が予測できれば関係の築き方を確定できる。確定できればもう考えることにメモリを割かなくて済む( = 楽できる )。

しかし楽さと引き換えに論理的厳密さは失われている。

楽さと論理性がトレードオフであることを示すには、人間の心理傾向に着目するのが良さそうだ。

楽したいがために早とちりするのが人間 ⇔ 楽ならば早とちりの可能性がある

利用可能性ヒューリスティック。人は参照しやすい知識や経験により影響されやすい。場合によっては影響されやすいどころか、手頃な情報だけを都合よく解釈して早とちりをする。

数学科生が世の中を数的に解釈する癖があるのは、日常的に数を扱っているからだ。音大生が街中の音に敏感なのは、普段から音を解釈する練習を積んでいるからだ。同じように、プログラマはWEBサイトのソースに気を配るし、調理師は飲食店の料理の盛り付けにうるさい。

/*......と書いている私がすでに利用可能性に侵されていて、これらの例が僕の頭に浮かんだのは僕が数学科生で、音大生に会ったことがあり、プログラミングを勉強し、昨日飲食店に行ったからである。

また、数学科生だからといって世の中を数的に解釈するだけとは限らない。これは、僕がステレオタイプ的な人物像にアクセスして楽をした結果、こういう安易な文章を綴るに至っている。冒頭のAさんと僕は同じように楽をしている。

そもそも利用可能性ヒューリスティックという概念を僕が脳から引き出したのは、昨日ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』を読み返したからだ。*/

概念がその利用可能性を発揮するための接触頻度には閾値があるようだ。つまり、ある一定水準以上の頻度で接触した概念でないと、脳はその概念をいざという時に引き出してくれない。

過度に浅く広くの学習では、それぞれの概念への接触頻度が閾値に達しない。結果として各知識の利用可能性は極めて低いままにとどまる。

これを良しとすべきか否かは微妙なところだろう。学習が意味をなさないとも言えるからだ。ただ、少なくとも利用可能性ヒューリスティックへのさしあたり対抗手段として有力ではある。

しかし根本的な解決には程遠い。結局人は相対的に最も頻繁に接触した概念からの影響を受けてしまう。人の思考において決定的な役割をもつのは接触頻度の序列であって頻度そのものではないのかもしれない(ただし接触頻度が閾値を超えていることは必要)。

ただ生きるだけならどうでもいい

ではそもそも、利用可能性ヒューリスティックが障害となる営みとは?利用可能性ヒューリスティックがむしろ鍵となる営みとはなんだろうか?

後者は生きること全般、といっていいだろう。生物は必要な能力しか残さない。心理的傾向が"ある"ということは、その傾向は生きるために必要なのである。さらに具体的に言えば"楽に生きるために"必要であり、人は利用可能性ヒューリスティックによりレッテルを貼り、知的消耗を回避することでエネルギーを節約している。

身もふたもない話だが、ただ生きるにあたって、利用可能性ヒューリスティックを意識的に回避する必要などまったくないということになる。

しかし人間の営みは多岐にわたり、一部の営みの指向性と心理傾向性は正面衝突している。すなわち前者の営みだ。

客観的思考への3つの困難性

利用可能性ヒューリスティックとは改めてこういうことだ。

  • 人がある命題の真偽を判定する時、前提としている経験や知識が必ずある。そしてその"前提の選び方"というのは、意識的に変更しない限り"思い出した順"になる。
  • 知識や経験を思い出した順に並べた結果、それっぽいストーリー( ≒ レッテル )が発見されたら、人は論理性を確認しないうちにそこに飛びつく。論理関係をさっさと確定させて、考えることをサボりたいからだ。

ここから、客観的にものを考えるための3つの困難性が考えられる。

  1. (前提集合を充実させることの困難性) そもそも、客観的な認識に必要な概念を溜め込んでおかないと話にならない。ごく限られた経験、ごく限られた知識の持ち主は蓋然的に普遍的な認識には到達できない。
  2. (前提の選び方の困難性) 客観的な認識に必要な概念を持っていたとして、それを前提として正しく選び取らないと、のちのち論理に綻びが生まれる。無意識的に選びだした概念はただ単に思い出しやすい概念というだけで、論理的必然性は必ずしも備わっていない。利用可能性ヒューリスティックの"障害としての真骨頂"、すわなち客観的思考にあたっての一番のネックはここにある。
  3. (論理の困難性) 第2段階までで材料は揃った。あとは論理的な誤謬を避けるだけであるが、それが容易なら数学や哲学は今頃もっと発展していただろう。

それぞれの困難性に対応する現象は次のようになると思われる。

  1. 学習と経験の不足、低い認識視座ゆえの誤った目的意識
  2. 利用可能性ヒューリスティック
  3. 論理力の不足(そのまま)

美味しい料理を作るには、まず食材かごを充実させ、そこから過不足なく材料を選び取り、適切に調理すればいい。それは簡単そうに見えて、本当に出来る人はごく限られる。この3STEPどれもが、鍛錬と能動的努力を要する、人間には途轍もなく難しい営みなのだ。

人間の限界?

どんなに頑張っても、知識や経験、すなわち人生の構造以上のことは生み出せない。せいぜい人生の投射がいいところであり、その人生の投射ですら、具現化には多大な苦労と努力を要するのが、人間の認識形式なのだ。

大抵の判断や認識というものは主観的であり、その人が頻繁に触れている概念に多大な影響を受けている。接触頻度の高い概念に偏りがある場合( 99%以上の人間はそうだろう )、判断や認識にも偏り(歪み)が反映される可能性が高くなる。

その偏りは専門分野に閉じこもった場合には長所となるが、もっと広く、世間一般、人類一般で共有できるような認識の構成においては短所になりやすい。全く反対方向に偏った人間同士は、お互いにお互いが何を言っているのかわからない。

普遍的な認識に到れる人間というのは、経験や知識に究極的に開放的であり、あらゆるレッテル貼りを自制し、つねに意識的に理論を体系化する。