日記の是非

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日記なんて書いて何になる?いいようのない、ナルシシズムへの嫌悪が根底にある。残しておくような価値が今日という日にあるか?んなもんあるか。あってたまるか。1人の人間の一日の事実の列挙ないしは心理。う〜ん、塵ほどの価値もない。生ゴミのほうが100倍は有用だ。

なるほど日記をしたためておけば、ふとした瞬間にいつでも過去の出来事を参照できる。在りし日が文字によってありありと蘇る。最近は日記アプリなんてものもあるから、写真や動画も添えての日記を残しておくことで、過去はより鮮明に、より長期的に保存できる。テクノロジーさまさまである。

......出来ていいのか?残せていいのか?そもそも残せているのか?過去は過去だ。どんな詳細な日記を残そうと、過去をそっくりそのまま味わうことなど出来ない。記憶の中の過去は現在の僕による解釈を通して歪められている。それはいくぶん美化されたり醜化されたり、捨象されたり捏造されたりして変質している。幻想、それ以外の表現が見当たらない。真に過去を振り返れる人などいない。日記によって再現度を高めた所で幻想に変わりない。幻想に縋って何を得ようというのだ。

そんな風に捉える身としては、日記に時間を割くことの意義がよくわからない。否定的ですらある。

こういう風にも思う。日記に過去を書きつけて過去に価値を認めるのはなんだか、未来に価値をあまり望まないことと似ていないだろうか?そこにはなんだか虚しさや寂しさがある。日記に残すくらいだから、今日にそこそこの(あるいはかなりの)価値を見出したことになる。人生は明日以降も続くのだから、

(未来のための準備の効用) < (過去を保存することの効用)


という不等式が成り立ってしまう。「いやあ、良い過去だった。未来にこれ以上は望むまい」という「悪い方の潔さ」を多少なりとも嗅ぎつけてしまうのだ。どうしても。

そして何より、日記に残しておかないと忘れるような過去をわざわざ残す理由がない。これに尽きる。

「いや、そうじゃないよ」と。「思ったよりも日記は未来のあなたに恩恵をくれるかもしれないよ。」そんな風に説き伏せられかけたら僕はこう言い返す。「そんな不確定な恩恵に縋るほど僕は楽して生きてない。」

これは僕の偏屈な意地でもある。日記といういつでも頼れる慰めがあると、未来に全力で臨んでいこうとする姿勢や意欲が必然的に削がれてしまう気がする。僕の見積もりによれば、過去への執着というものは、未来への意志をひどい時で9割削ぐ。

過去なんてものはもう戻ら(れ)ない以上、みすぼらしい、最悪で醜悪な幻想くらいでちょうどいい。日記になんて残したら、わざわざ現実に"格下げ"することにならないか?

戻りたい過去なんて邪魔なだけだ。過去には戻れないから。すると、過去とは戻りたくはないものだ。戻りたくはないものを記録すること、すなわち日記を書くことはなんにもならない。

などと僕が思えるのは、しょうもない人生を送ってきたから、つまり過去に価値を見出せないからなのかもしれない。

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さて、以上が僕が数年前に書いた"日記"だ。この文章ファイルは僕が過去を振り返らない限り見つからなかった、というなんとも皮肉の効いた状況である。

日記に価値はないという見解は相変わらずだが、日記を書いている瞬間というのはもしかしたらなかなか悪くない瞬間だと今では感じる。

日記というのは別に未来のための行為でも、ましてや過去のための行為でもないのかもしれない。ただその瞬間瞬間で、心の琴線に触れた感情、感覚、直観、論理、境遇や交友関係、時事問題や時代の潮流、知人の振る舞いを書きたいから書く。書くことと思うことは少し異なる。その差分を摂取している。現在進行系の行為の中で何かが余計に生まれている。現在による現在のための行為。日記を書くとはそういうことだ(ほんとかよ)。

/*しかしいずれにせよ、日記が未来には不要であるという僕の意見は変わらない。現在は未来のためにあるべきだ。そして死の瞬間にだけ、現在が現在のためにある。そんなささやかな理想をもっている。僕はその瞬間が楽しみで仕方ない。*/

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