像と残像としての世界

現象を単にとみなそう。すると、あらゆる現象には残像とでもいえるものが伴うようにみえる。像には残像が伴うから。

感情には残像がある。念願叶った翌朝も喜びに浸れるのは、達成感に残像があるからだ。悲しみはおいそれと癒えない。悲しみの残像は週単位、あるいは年単位で私たちを苦しめる。

感覚には残像がある。技能を磨いていく過程で「は、もしかしてこういうことなのか!?」とひらめくことがあるが、このひらめきの効用の持続期間は有限だ。ひらめきの残像が残っているうちに、記録に残すなり、意識的な一定量の練習をこなすなりして、私たちは技能を着実に高めていく。

人との交流には残像がある。私たちはいままでたくさんの人達と交流した。10年前のあの人と交流(会話)したときの残像がいまだに残っていることもあれば、昨日の交流ですら場合によってはすでに残像が消えていることもある。いずれにせよ、対他人の交流という像は次第に減衰し色褪せ、一定時間後 完全に消滅する。消滅するまでの間、私たちは残像により慰めや懐古をえる。

さて、残像についてどんなことが言えるだろうか。

何事も、残像が残っているうちに次の像を補足するのがよい残像は私たちにとって重要な何かを示唆している。私たちはそこから何かしらを能動的に汲み取らねばならず、また汲み取った何かを次の像の解釈に適用することで初めて、向上していくことが出来る。すると再び残像にでくわす。この循環過程をひたすら繰り返す。間を置いてはいけない。全ての残像が消え去った時点で私たちの生きる意味は終る。

次のこともほぼ事実だろう。残像の持続時間の長短は自分の傾向性を如実に反映する。つまり、長く残る残像こそが自分にとっての本質を内包している。

次も言える。残像の残り具合とは、その像( = 現象)の効用の減衰具合である。残像が明瞭なうちは現象の効用も高い状態にある。この効用の高さを生への活力に転換できるか否かが、充実した生を送るかどうかの分かれ目となる。

最後に、残像の明瞭さは(大抵のケースで)単調減少する。像を補給しない限りは、今日より明日、明日より明後日、残像は刻一刻と不明瞭になっていき、失われた明瞭さは絶対に取り戻せない。

以上のことを踏まえて、像と残像としての世界における望ましい生き方とはどんなものか。

私たちは像または明瞭な残像と、つねに触れ合っていなければならない。また、より鮮明でより長期にわたる残像を伴うような像をつねに探し求め、補足し続けることこそが私たちの活力の源となる。