のべつまくなし

自称本の虫。INTP型。

知識詰めについて

ねんどの塊を目の前にして「自由に造形してください」という課題を与えられたとする。あなたは自由に発想して、動物なり彫像なり、完成像に向けて手を動かし始める。

ふと横を見ると、同じ課題を与えられた別の人が、ねんどベラを使ってねんどをいじっている。あなたは「不公平だ、私にもねんどベラをくれ」と、ねんどベラを貰う。造形のしやすさがいくらか増すだろう。

更にふと後ろを見る。なんと電動の工具を用いて精巧な造形をしている人がいるではないか。あなたは「私にもあの工具をくれ」と言う。「いいけど、操作が複雑ですよ」と言われあなたは訝しむ。「私だってそれくらい使いこなせるさ。」

さて、以上の寓話で伝えたいことのおおよそは書けた。

創造性や生産性の追及にあたり、知識は道具としての一面を持つ。そして道具としての知識は日進月歩、日々洗練されている。

最先端の"道具"を巧みに使用するためには、前時代の旧い道具に習熟していることが望ましい。そしてその旧い"道具"の習熟にあたっては、更に前時代の旧い"道具"への深い理解があると望ましい。この階層を、その道具の起源まで遡っておくのが断トツで望ましい。そりゃ、理想はね。

ここで、道具としての知識の具体例をば。理学で言えば公式。語学で言えば構文。Javascriptに対してのJQuery。

知識 = 道具を使えば一瞬で済むような作業工程を一から手作業でするのは無駄である。こんなことは誰でも知っている。

しかし知的作業となると人々はそのことを忘れがちになる。随所で「考える力」「問題解決力」などの言葉で、自分自身で考える力の重要性が声高に叫ばれているが、何から何まで一から始めようとする姿勢は時代錯誤もいいところ。

競争社会においてまず重要なのは、相手と自分の条件(作業環境)を出来る限り揃えること。これは最低条件だ。ここから色々な話が展開し始めるのであって、スタート地点である。

この条件すら満たせず、作業条件が相手より劣悪な場合、いくらもがいてもあがいても、自分の能力が相手より遥かに卓越している場合を除いて勝ち目は薄い。

そして、この「作業環境を相手に揃える」行為こそが、知識詰め、つまり道具としての知識の習熟にあたる。

ねんどベラで3Dプリンタに立ち向かう。それはそれで稀有なことだ。手作業ならではの味わいといったものがウケるかもしれない。しかし99%ない。ねんどベラを用いての制作物の99%の凡作は、3Dプリンタを使えば1分で完成する。つまりねんどベラを用いて市場でウケる確率は1%以下とみていい。

したがって人々の大半は、意識を3Dプリンタに向けるだろう。しかし、3Dプリンタを安価で使用できる状況下では、もはや3Dプリンタを使えるか否かでは勝敗は決まらない。そんなもの誰でも使えて当然という世界。その先の「どう使うか」が勝敗を決する。

潤沢にあるものは潤沢に使わないとその先に行けない。潤沢にあるものをほそぼそと使うのは前時代の方法の踏襲の域を出ず、すでにやり尽くされた手法をなぞっているだけの可能性が極めて高いからだ。

 

 

昨今、「Googleでなんでもわかるのだから知識を蓄えておく必要はない」というもっともな見識が散見されるが、Googleが提供してくれるのは「むき出しの道具としての知識」までで、道具の使い方までは教えてくれない。

Googleの検索と知的創造との関係というのは、ホームセンターに放り出されて、「家を作ってください。材料や工具はいくらでもありますよ」といわれても、職人でもあるまいに、家は建てられっこないのに似ている。

結局は道具の使い方まで込みで優位性なのだから、その知識 = 道具にあらかじめ何回か触れ、ある程度親しみ深くなっておかないと話にならない。ゆえに優位性をもたらすものは、慣れ親しんだ知識。しかも本質への理解を伴う知識だ。

知識詰め軽視は危険だ。それは「ねんどベラ一本で造形大会に出場する」ことに似ている。

かといって知識詰めさえしておけば間違いないということも100%ないだろうが。