結果 << 過程の話

結果は過程より重要ではない。

私たちはともすれば「結果が全て」という殺伐とした価値観に陥りがちだが、それには主に2つの理由がある。

  1. 資本主義社会の構造が精神に投射されるから
  2. 過程のもたらしてくれた充実や価値を結果にみてしまうから

論点1

資本主義社会では、結果の伴わない行動や思想は淘汰されていく。暮らしを営むにはお金が必要であり、お金は結果と引き換えに手に入る。そのような世界で、結果こそが物事の本質であるとする考えは自然に思えるし、そもそも「そう思わないことには生きていけない」のが実状。

一見そうなのだが、一度疑いの目を向ければ明らかに結果それ自体に価値はない。かつ、「結果が全て」という価値観そのものからは何がしかも生まれない。つまり、「結果が全て」という価値観は、価値観それ自体も、それを抱くことによっても、私たちになにももたらさない。

ではそもそも何がいけないのかというと、「成長を競い合う」という前提のもと成り立つ資本主義構造に限界があり、かつ私たちはその限界に直面しているということらしい。限界というのは、幸福感の限界である。

私たちの思想や発想は属する組織やその構造に大きく依存し制限されてしまっていることを、多くの人が自覚しなければならない。(私も出来る限り気をつける気はありますが、"天井"は思いの外低いです。個人の認識能力なんてたかが知れている、しかも"思ったよりも残念な具合に"たかが知れている、ということです。)

「結果が全て」だと信じるのはあなたの魂ではなく、資本主義に身を置く表層的で後天的な人格の断片である、ということである。もしあなたが非資本主義の社会に生まれたら、「結果が全て」などと信じていただろうか。

論点2

私たちの幸福の源泉となっているのは原因と結果の繋がりかた = 過程 であり、結果そのものではない。

あなたが小学生の頃、算数の問題が解けて嬉しかった、絵が上手だね、歌が上手だね、脚が速いね、と褒められて嬉しかった、というような経験があったと思う。確かに、このような経験の嬉しさは、結果の嬉しさなのかもしれない。しかし大人になったあなたは、かつての結果を同じように喜べるだろうか?

喜べないと思う。なぜなら、「小学生のクラス一脚が速い」というような"努力をほとんど伴わない結果"には過程が欠落しており、過程がない(と自分が認識する)以上幸福は生じ得ないのが人間だからなのだ。

もう少し詳しくこの点をみていこう。過程のない結果とはすなわち、「自分ではどうすることも出来ない結果」「自分の意志で掴み取ったものではない結果」のことである(「クラス一脚が速い」という結果は少なくとも小学生時点では、自分ではどうしようもない結果だろう)。そのような結果は自分がいてもいなくても、自分がどう振る舞おうと影響のない世界に一貫した現象であり、自分という存在が可能性に関与出来ずに疎外されている。

そしてこの疎外感(自己効力感がない状態、などともいわれる)こそ、幸福感の発生を阻むものだ。そうではなく可能性に関与し、物事の結果を突き動かす、起こり得なかったことを起こし、起こると困る出来事を未然に防ぐ。これこそ人間の幸福の本質ではないだろうか。

つまりは過程だ。私たち人間は原因になりたいのである。結果になりたいのではない。

考えてみれば、たとえば脚が速かった所で、他人からしてみれば「ふーん、だからなに?」でおしまいである。これはなぜかというと、他人には結果のみがみえ、過程がみえないからなのだ。

ただ脚が速いだけでは人の心は動かない。これがたとえば「10年前に事故に遭って下半身不随になりかけた男の子が、壮絶なリハビリを経て世界一になる」などの過程が明示された場合において、人間はおしげなく賞賛を示す。

そして、そういうことが積み重なってくると、いつの間にか「ただただ脚が速いこと」が素晴らしいんだ、という勘違いが大衆を支配しだす。すなわち、結果そのものの価値が虚構され始める。過程の充実を結果にすげ替える、と言うのはまさしくこのことだ。

もう一つくらいそのことの実例を。学校のテストで良い点を取ったら嬉しい。ヤマが当たって取った高得点だろうがしっかり対策をして取った高得点だろうが、最初のうちは喜びの大きさには大差ない。しかし次第に前者のもたらす喜びは薄れていく。自己効力感が弱いからだ。つまり「自分は取るべくして高得点を取った」という実感が足りない。

すると学生は次第に、対策→高得点という流れを洗練しだすだろう。その過程における自己効力感の高まりこそが幸福感の核なのだが、そのことのメタ認識が芽生えていない限り、学生たちは「高得点 = 幸福感がある」という短絡的な構図認識に陥る危険性が高い。ここでも過程の充実が結果にすげ替えられ、結果そのものの価値が虚構されている。

この誤認識への確信は悲しいことに、熱心な親によって強められるのだが、それはまた別の話。とにかく、テストで高得点を取ったこと(結果)の嬉しさは努力をしたこと(過程)から生まれるのであって、高得点そのものには何の価値も喜びの種もない(はずである)。

/*高得点を取れば優越感に浸れる、などの意見はある。ここでは優越感およびそれに類するものに一切の価値を認めない。*/

なお、「過程の良し悪しを確かめるためには結局、結果の良し悪しを見なければいけないではないか」という批判に対してはしたがって、次のように述べたい。

私たちが結果の良し悪しと呼んでいるものは、元々過程の良し悪しだったものである。「良い結果」「悪い結果」などというものは元々はなく、あるのは「良い過程」「悪い過程」だけなのだ。我々が本当に目を向け執心すべきはそちらである。

結果の内実は皆無

さて以上で、「結果はなにも生み出さない」とは言わないまでも、「結果が全てではないこと」くらいは示せたように思う。

しかし私の示したいことは前者であり、結果主義を捨てない限りは幸福感に限界がもたらされるという現実である。

結果主義の悪い点を端的に示す。

  1. 結果に一喜一憂しているうちは、過程を充実させようという十全な意志が育まれづらい
  2. 緊迫や切迫、専念が絶えず要求されるゆえに、結果主義的な生は息が詰まる。結果主義者はその息の詰まりを当然のように他者に要求するが、その息の詰まりを長期的に許容できるのは限られた気質の人間だけであり、多様性を尊重するときわめて独善的と言わざるをえない
  3. 結果主義の蔓延る社会というのは実質的には、才能が幸福感を決定的に左右する社会であり、閉塞感は避けられない。それは絶対に、誰もが幸せな社会にはなりえない(ではそんな社会が実現しうるのか?)
  4. 集団内で誰かひとりでも結果主義を貫くと、集団全体が結果主義に陥らざるを得ない。結果主義は流行る(感染する)のだ
  5. 相対的に過程の価値が貶められるため、上位層以外はその意欲を削がれる

3,5番が本質に近い。資本主義体制下では才能を有する、すなわち"上位"に位置する必要があり、その闘争によって得た幸福感は必ず誰かを不幸にする。そしてそれは仕方のないことでは決してなく、資本主義を採用することに端を発している。

そもそも資本主義体制を編み出し軌道に乗せたのは"上位層"であり、その構造の維持を担っているのも、その構造による利益を脈々と享受しているのも、すべては"上位層"だ。

そもそも上位というものは、下位の存在に対置されて初めて存在しうる。

上位存在の欠点のひとつは、その自身の存在性の起源たる下位存在の軽視にあり、その軽視をそっくりそのまま具現化し構造化したのが資本主義社会である。

歴史や叡智は蓄積され続けるのだから、下位層にもいずれそのことは周知される。すなわち、一見安定的に見える資本主義も長い目で見ればその欠陥がたたって、破綻は起こりうる。

その破綻のきっかけは他でもない、私たちひとりひとりの違和感、不全感にある。制度や構造が完璧だとしたらそんなもの感じるはずがない。

「誰も違和感の感じることがない構造が実現可能なのか?」という問題は重要ではない。重要なのは、「一番違和感の少ない構造は本当に資本主義なのか?」という問題を問題として共有し、全員で答えを追求していくことである。みたところそのような姿勢は日本にはまだまだ足りない。ただただ得体の知れない違和感が蔓延るばかりである。

「そんなこと考えたってしょうがない」とあなたは思うかもしれないが、あなたが社会に違和感を感じる限りは、そんな考えは捨てた方がいい。違和感は出来る限り黙殺されるよう万全を期しているのもまた上位層であり、その意味であなたの考え方は彼らの思うツボだからだ。その考え方はあなた本来のものではなく、植え付けられたものだということだ。

そうなると「自分自身本来の思考なんて果たしてあるのか」というまた別の問いも生まれてくる。しかし、疑う限りは危険はない。信じることから危険は始まるのである。