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のべつまくなし

哲学と人生

嫌われる勇気の正当化条件

「嫌われる勇気」はいついかなる時でも発揮していいわけじゃなさそう、じゃあどんな時にどんな風に発揮していいものか?がテーマ。1061字。

典型的日本人気質の持ち主は、周りの人に嫌われまいとしてあれこれ思い悩む。

ある日彼はとある書籍と出会う。「嫌われる勇気を持つことが必要だ」という考え方を咀嚼して、彼は心が軽くなるのを感じた。

彼単体を見ればそれは望ましいことなのだろう。しかし社会全体で見れば話は変わる。嫌う労力なるものが世の中にはある。

(ここで労力とは単に心的、身体的な苦労のこと。)

労力を負担するのが誰なのかが変わっただけで、社会全体での総労力は増えたかもしれないではないか、というのがひとつの論点だ。

例えばいま、高橋くんには3人の近密な同僚がいる。嫌われる勇気を身につけた高橋くんは気が楽になるかもしれない。しかし、同僚が「前の高橋くんの方が断然良かったね」と口々に言い出したら、嫌われる勇気の望ましさは疑わしい。

高橋くんの労力が3減っても、3人の同僚の労力がそれぞれ1ずつ増えたらもう"アウト"だ。嫌われる勇気はただの自己満足でしかない。つまり嫌われる勇気は、嫌う労力を加味した上で発揮されるべきである。

一般化するとこうなる。

 

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嫌われる勇気が正当化されるとしたらそれは、以下の条件の下でのはず。

Σ(k ∈ K)(ΔL_k) < L

ただし

K = 属する組織

ΔL_k = 他者kが自分を嫌うことによって新たに負担する労力

L = 嫌われまいとして自分が負担していた労力

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ただここで疑問が残る。

たとえ組織全体の総労力が減ったとしても、かつて自分が負担していた労力を他人に転化していいものなのか? 

嫌われる勇気を発揮して実際に嫌われるとすればそれは、自分に内在している問題点の考慮の放棄ではないだろうか。簡単に言えばただの開き直り。

よってここでは、嫌われる勇気を発揮していいのは「実際には好かれるような価値を持っているのに今ひとつ踏み出せない人」だけだ、という価値観に則って、嫌われる勇気の正当化条件を書き直そう。

 

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Σ(k ∈ K)(ΔL_k) < 0

ただし
K = 属する組織
ΔL_k = 他者kの自分に対する労力の増減分

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この条件の特徴は自分の労力Lを考慮しない点にある。

自分が辛いかどうかは関係ない。他者に楽させるための行動を起こす際の嫌われるリスクを背負う、という種類の嫌われる勇気こそが、本当に求められているものだ。