のべつまくなし

自称本の虫。INTP型。

やる気は出るもの

「やる気を出す方法」なんて言葉で溢れている昨今。

もういい加減うるさいよ。もう聞き飽きた。私はなんとしても「やる気は出すもの」という価値観を破壊したくなってくる。

そう。「やる気は出すもの」とはあくまでひとつの価値観、信仰であって、真実ではない。

真実でない考えがなぜこんなにもてはやされるのか。それは「やる気は出すもの」としておいた方が金になるからだ。

人々はやる気を出したいがために栄養学の入門書を読む。エクササイズに励むために上等なウェアを買う。脳科学を謳った書物にやすやすと手が伸びる。それらはもっともらしい。当然だ。マーケターらはもっともらしさの演出のプロであり、その巧拙が損益を分岐する。

やる気ビジネスは今後も、人々のうわっつら浅いところだけを取り上げては、また新しい金脈へと移行していくだろう。核心には決して触れないままで。奴らはふんだくれる内にふんだくる魂胆だ。

だが奴らの命日は近い。本質に背いたビジネスは絶対に生き残らない。淘汰の原理は正しくなかった試しがない。

まあしかし、私はビジネスを貶すつもりは毛頭ない。たちの悪さはむしろ、そんなビジネスに金を払う無知さの方にある

真新しさは無知な人々にとって上質なもっともらしさである。彼らは未知のものにとんでもない価値が秘められていると思いたがる。なぜなら、そうであるなら彼らのしょうもない人生にも説明がつくからである。彼らはおめでたい。彼らは既知の延長線上にこそ価値があることを知らない。根気がないから未知に甘えるしかない。

科学という名の権威にも人々は弱い。科学的な裏付けがあるからといって、それが自分にとっての本質にそぐわないと何の意味もないことを人々は見落としがちだ。

SNSによる口コミ効果、ニュース記事のネットによる拡散力も今日では影響が大きい。知人や有名人や知識人が効果を絶賛する方法論。あたかもそこに自分の人生の救済があるかにみえる。数の効果がそう見せているだけなのに。

つまり、資本主義経済下、情報社会ではますます、私たちの感じるもっともらしさが本質に根ざしている可能性は低い

無から生まれた鶏

では、私がやたら繰り返す本質とはなにか。

私は「やる気は出るもの」と信じている。

ただし、最初から自然にとはいかない。意識的な努力はある程度必要だが、ある段階に至ったらあとはもう「やる気は出る」。 その点で「やる気は出すもの」信仰とは一線を画す。

その核となる考え方は

  1. 真の動機は自分の内側にあり、あなたはそれを熟知しているはずだ。特に、幼少期の体験をあたるといい。決してそれを誰かに教えてもらうことはできない
  2. 好みのものにやる気を出すのではない。やる気が出るものを好むのだ

私たちは興味があるものを深く知ろうとする。そして、深く知ったものには興味が維持される。

この深い知強い興味はいわば鶏と卵みたいなもので、お互いがお互いを生みだす。

どちらが先に生まれたかなどはこの際どうでもいい。重要なのは、元を辿れば、最初の"卵"は無から生まれた点である。あるいは、最初の"鶏"は無から生まれた点である。深い知と強い興味のサイクルの始点は無条件的だ。

この無条件性は才能と呼ばれているものであり、私がやる気の根源とみるものである。

物心ついて間もない4歳の少年は星空に魅入られ、天文学を志した。別の少女はピアノを弾き始めた。また別の子は絵を描き始めた。そこに理由や因果関係などなく、あるのは純然たる才能だ。

才能に耳を澄ませることが、やる気が出ることに直結する。俗っぽくてあまり良い言葉ではないが、向き不向きを受け入れるということだ。

やる気が出ることが向いている証なのであって、やる気を出そうとした時点で既に向いていない可能性が高い。そして、向いているものの中に人間の求めるものはある。

「やる気は出すもの」信仰は、いわば自分の本来の傾向性・適正への反逆である。

やる気の真贋

そうではなく、やはりやる気は出すものだと。自分本来の傾向性に牙を向いてでも手にしたい価値がそこにはあるのだと、そういう人も少なくないだろう。あるいは、やる気を出す必要性に迫られた人。

そんな価値観を私は断固否定する。そんな現在の延長線上に望む未来などない。断言してもいい。

自分本来の傾向性こそが幸福感など人間の求めるものの源泉であり、それを軽視することは自分の首を絞めるようなものだ。

"無から生まれた鶏"に卵を産んでもらえるのに、"無から鶏を生もうとする"必要がどこにあるというのだ。

興味がないことを知る必要はない。知らないことに興味を持つ必要はない。無理にそうしてみたところで、そこに関するやる気は決して持続しない。

やる気は傾向性のサインである。自分の傾向性を最大限認識し尊重できた時、やる気は出る。逆に言えば、それができない限りは偽物のやる気しか出ない。

偽物のやる気と本物のやる気の区別の仕方を最後にみておこう。

  • 偽物のやる気はそれを得るために出費を伴う。本物のやる気はむしろ自分に利益をもたらす。
  • 偽物のやる気は出すもの。本物のやる気は出るもの。
  • 偽物のやる気は決して持続しない。本物のやる気は持続し、場合によっては無尽蔵に増えてゆく。
  • 偽物のやる気は他者によって容易く揺らぐ。本物のやる気はあらゆる他者によっても影響を受けない。
  • 偽物のやる気は未知と関わり深い。本物のやる気は既知と関わり深い。本物のやる気を私たちは既に知っている。
  • したがって、偽物のやる気は臆病さと、本物のやる気は勇気と密接な関係にある。
  • 偽物のやる気は悪い意味で理屈っぽい。本物のやる気は非言語的、直観的。
  • 偽物のやる気はどこかしら醜くぎこちない。しばしば苦痛を伴う。本物のやる気は美しくなめらかで、喜びに満ちている。