のべつまくなし

自称本の虫。INTP型。

わかってないのはいつも自分の方

人間はガラクタじゃない。一見どんな好ましくない性質を備えた人間にも、道理があり心情があり、一貫性があり背景があり、故郷があり親があり、本質があり信条がある。

それら真実を根も葉もない想像でうやむやにし、都合の良いレッテルで分類し、価値を好き勝手歪めるのはいつも自分の方だ。

他者はつねにただいるだけで、自分に一切の意味を押し付けてこない。どんな解釈も強要してこない。

他者を解釈し意味を付与できるのは自分しかいない。したがって、意味の取り違いも自分の中にしか生まれえない。

あらゆる他者は整合性を備えている。なぜなら生きることは整合的だから。

ある他者が整合性を備えていないように見えるのは、自分の解釈に整合性がないというだけ

性格や容姿、言動といったわかりやすい外観だけを用いて人を判断しようとしても無理がある。それらは互いにたやすく矛盾する。もっと根深い部分に目を向ける必要がある = 止揚の考え。

もちろん、他者の整合的解釈が成功したところで、自分が真実を見ていることの保証にはならない。整合性を虚構することもできる。

しかし少なくとも、整合性のある(とみなせる)他者に対しては、尊敬の気持ちが生まれてくる。

これこそが大切であって目的。整合的解釈はそのための手段。だって、他者そのものと自分の解釈が紛れもなく一致していることを確かめる術がない。

他者が自分に意味を押し付けなかったように、自分も他者に意味を押し付けることはしない。

 

 

 

 

なぜこんなことを書いたのかについて。

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相手に整合性さえ見出せたならもう許容する以外ない。争う理由がない。ゆえに、争うのは相手の整合性を汲み取れていないから。

= 人々の争いの種は、相手に整合性を見出せないことではないか。

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根本には、私のそういう考えがあった。

本来ある整合性が見えないから争う。そんな悲しい、馬鹿げたこともそうそうない。

あるいは人は、整合性を認めた上で、その整合性の種類のいかんによって、争いの元になるような感情を抱く。

こうなると別の問題だ。これは私とは全く感じ方が違うことの現れだから、私の理解の範疇ではない。私は、あらゆる種類の整合性は美しく尊敬に値するものであると考えている。

 

 

 

 

 

最後に。

人間って本当に整合性あるの?という点について。

それについては、自分がそう思えばあるというのが落とし所。

神の創造性とか宇宙の意志とか、そんなものを肯定する気持ちもさらさらないけれど、かといってそういう類の発想を完全に否定すると、なんだかギクシャクする。

「人間ってすごいなあ〜」という畏怖をどこかしらで無条件に持ち込むと、なんだかとても安らかなのである。