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のべつまくなし

哲学と人生

直観的に合わない人とは絶対に合わない理由

「合わない」ことの背景

私たちがある他者を自分と「合う」と思うとき、私たちはそこに自分の求めるものが得られる構造を見ている。

私たちがある他者を自分と「合わない」と思うとき、私たちはそこに自分の優位性が危ぶまれる構造を見ている。

要するに私たちは自分にとって優位な構造に身を置きたがるがために「合う」「合わない」を感じ取る。

高所得者は口を揃えて金稼ぎの善性を主張するが、低所得者は格差拡大だと非難する。女性が雇用機会の均等を訴えれば、立場を失うのを恐れて男性が押し込める。理系は数字の客観性を、文系は豊かな主観性を武器にする。いずれも前者には後者が、後者には前者が「合わない」存在となっている。

本質的にはそういうこととして、実践的にはどうだろう。私たちは日常的に、他者と自分が「合う」か「合わない」かをどのように判断しているのだろうか。

好みは合う方がいいか。合わない方がいいか。

主義思想が合っていればそれでいいのか。

能力が近ければいいのか。全く異なればいいのか。

性格はどうか。全く異なるのととても似ているのとではどちらがいいのか。

そういったことがらは全て表面的なもので、私たちはもっと根源的で高次な判断基準を用いていると私は感じる。

なぜなら、認識に伴う快不快はたまたまだから。「たまたま今日そうだった」ことを否定する根拠がどこにもない。人間は心変わりをするし、機嫌もコロコロ変わる。知識を得れば考え方も変わる。好みが合うことが不快になることもあるし、好みが合わないことが快感情につながることもある。それは相手にも自分にも言えること。

大抵の主義思想や能力や性格なんて所詮、そのときの機嫌やタイミングさえ良ければ受け入れられてしまう。

もっと直観的で、もっと硬直的で、もっと大きなうねり・流れ、「合わない人とは何をどうしても合わない」という遺伝子レベル、魂レベルでの食い違いは存在すると考える。

すなわち、後天的に変えようのない判断基準は存在すると思う。生まれてから死ぬまで一瞬の例外なく、どんなに機嫌が良かろうと「合わない」他者はいるということだ。

それだけでなく、人間はその先天的な判断基準を第六感的に他者のそれと照らし合わせ、食い違うことを察知した結果「合わない」という判断を下すのではないか、というのが私見だ。

初対面での「合わない」は優れている

私たちは初対面の他者が自分と「合わない」ことを予感できる。

性格や思想、能力などのノイズが最も少ないのは初対面時点だから、この時点での「合わない」が一番信頼できるとすら言えるかもしれない。

人類が生まれてから何百万年も経っており、私たちは進化の歴史の最先端にいる。異種間の淘汰も同種間の淘汰も数え切れないほどくぐり抜けてきたはずだ。

その私たち人間が直観的に「合わない」と感じ、不快感を伴う。これはもう本当に「合っていない」のであり、「合わない」ことによるデメリットを回避するための警報として、不快感を生じさせている。人間は進化の過程で、そういうシステムの導入を余儀なくされたのだ。

数百万年経て洗練させてきたシステムに小手先だけの懐疑を向けるよりも、その圧倒的な品質保証を信頼する。それは、自分の中の奥底にある先天的な判断基準の発しているサインを敏感に、素直に感じ取り従おうとすることだ。

そういうサインは、能力や性格を判断基準として考慮する段階にはもはや感じ取れない。後天的に得たたまたまの判断基準というノイズがうるさ過ぎるからだ。

「合わない」ことの品質保証

もちろん、「合わない」という感覚が、品質保証の保証するところである保証はどこにもない。どこにもないが、歴史は解釈の仕方によってはその保証となる。

「合わない」という感性はなにも現代人特有のものではない。「合わない」国同士は戦争をした。「合わない」人種は差別され、「合わない」宗教は弾圧された。上流階級の人間は、「合わない」人間だからこそ奴隷から容赦無く搾取し、ヒエラルキーの最下層に留まらせた。

「合う」人間たちは結託して繁栄を謳歌し、「合わない」人間たちはその繁栄の影で生きてきた。

「合う」と嬉しいし、「合わない」とロクなことがないのである。

私たちの魂はおそらく、この摂理を嫌という程痛感してきたために、「合わない」ことに不快感を抱く。

魂というスピリチュアルな響きが受付けなければ、遺伝子、または教育の系譜と置き換えてもいい。先祖代々、親は子に、「合う」ことに重きを置くことのメリットを脈々と教授してきた。その価値観の集積先が私たち一人一人なのである。

弱者に社会は「合わない」

社会を動かしているのは、「合う」人達との繁栄を謳歌し優位性を築きたがる個人の本能である。このとき、優位性を築く能力の高さが強者と弱者とを分け隔てる。すなわち、優位性を手にした者が強者、そうでない者が弱者である。

社会は常に最も強者たる人物の判断基準を採用するから、この人物だけが先天的な判断基準を社会に適用することができる。彼を最強者としよう。

今後、社会における強者とは、最強者の先天的な判断基準に従うことができ、かつ優位性を築く能力の高い者となっていく。つまり、強者を定義するのは最強者である。

強者が定義できれば、強者でない者が弱者となり、弱者にはいくつかパターンがあることがわかる。

  1. 優位性を築く能力は低いが、先天的な判断基準は最強者のそれと近い
  2. 優位性を築く能力が低いうえに、先天的な判断基準が最強者のそれと衝突している
  3. 優位性を築く能力は高いが、先天的な判断基準が最強者のそれと衝突しているために、社会での台頭を望まない

優位性を築く能力はある程度後天的に伸ばせるから、弱者についても鍵を握るのはやはり先天的な判断基準となりそうだ。

1の弱者は優位性を築く能力を磨けば強者になりうる。彼らは比較的社会に合っているが、少なくとも現段階では「合わない」。

救いようがないのは2の弱者で、努力して優位性を築きあげたところでその優位性は本人の先天的な判断基準にそぐうものではない。2の弱者は本当の意味で社会に「合わない」。

3の弱者は、優位性なんてどうでもいいという判断基準によって社会に対して優位性を得ている(逆説的だが)。彼らは自身を弱者どころか強者であるとみなしていることもある。その欺瞞的な価値観の是非はともかくとして、彼らにも社会は「合わない」。そもそも彼らは社会に「合おう」としていない。

したがって、社会が「合わない」のなら弱者であるかどうかは別として、弱者には「合わない」のが社会である。

優位性の確保できそうな性質 = 重視する判断基準

最後に、先天的な判断基準とはとどのつまりは何なのかを明らかにしたい。

先天的な判断基準と先天的な能力とは完全に対応している。人は、先天的な能力を元にした判断基準を生涯変えない。

先天的な能力が個々で異なることが、「合わない」他者が存在することの原因である。

一般に人は自分の秀でている能力に優位性の根拠を持ちたがる。

生まれつき運動が苦手だが勉強が得意な子は、勉強こそが人としての価値を決めると信じる。逆に運動だけが得意な子は、勉強なんてできたところで価値はないと運動に励む。あるいはもう1人の多才な子は、勉強も運動も両立してこそ人間だと働きかける。いずれの子も自分が上位となる構造の正しさを認めさせ、結果上位に位置したいのである。

では、先天的な能力を元にした判断基準はなぜ生涯を一貫するか。

それは、先天性に起因する。簡潔に言えば、「どうしようもないこと = 先天的な能力」が優位性として捉えられる世界では、その優位性は絶対に覆らないからである。そして私たちは本能的に、絶対に覆らない優位性を欲するのだ。

みかんにりんごの味は再現できない。りんご好きはみかんでは満足しない。

全く同じ栄養を与えられ、全く同じ土壌で育ち、全く同じ日照条件であろうが、そんなことは関係ない。変えようのない種から得る果実の甘さもまた変えようがない。

「この甘さこそが至高だ」と触れ回りたいのが生物としての本能だ。

しかしそれにあたり障害がある。他者の種の異なる果実の甘さは再現しようがない。みかんの甘さが大衆を虜にしている世界ではりんごの甘さは見向きもされない。

私たち人類はヒトという種で共通してはいるが、本質はりんごとみかんに変わりはない。互いに異なる果実の種を割り当てられ、その果実としてしか人生を送ることができない。

地球とは果物畑のようなもので、ある時には酸っぱい果実が流行る。またある時には甘い果実が流行る。

りんごは「甘酸っぱさこそが果実の美味しさそのものだ」と信じるほかない。これはとある生徒が「文武両道こそが人生の本質だ」と信じることに対応している。

りんごはみかんを「合わない」と感じる。なぜならそこに、みかんが人気を博する構造において自分に及ぶ危険を見ているからだ。これは、人種差別とよく対応している。

運命的な「合わなさ」を優先する

先天的な能力と先天的な判断基準が対応しているから、後天的な能力と後天的な判断基準もまた対応している。

ここから言えることは、後天的な努力によりどんな高い能力、深い洞察、善良な性格を得たところで、合わない人とは生涯「合わない」。なぜなら、合わないかどうかを深いところで決定しているのは、先天的な判断基準の方なのだから。

すなわち、「合わない」ことは人と人との間に荒涼と存在する、生涯埋めようのない隙間なのだ。

私たちは生まれるやいなや、生涯変わることのない"合わない人リスト"を渡され、その気になればいつでもそれを参照できる。ただ素直に、直観的になればいい。

一番良くないのは、「合う」ための歩み寄り、「合う」ための徒労、「合う」ための妥協、そんなもので満ちたくだらない関係性を愚直に維持することだ。

もっと人々は「合わない」人を冷遇し、その分「合う」人を優遇すればいい。「合わない」ことを前提とした関係性がお互い最も消耗しづらいどころか、最良といっても過言ではない。