心の重荷について

実存主義⇆本質主義

「心の重荷をおろす」という表現がある。

「世界にあるのはただただ解釈であって、現象があるわけではない」という実存主義の立場につくなら、「重荷を抱えている人」は世界に重荷を背負わされているのではなく、勝手に世界に「自分が重荷を背負わざるをえないような意味と構造」を見出しているに過ぎない。この場合、重荷はおろせるのではなく、重荷として把握していた何かを重荷として把握しなくなるだけであって、重荷と自己は必ずしも切り離されるわけではない。

一方、「世界にあるのは解釈ではなく、あくまで客観的現象だ」という本質主義から世界を見るなら、重荷という概念と心という概念は別個に存在する。この場合、「心の重荷をおろす」と言ったら、重荷と自己は切り離されていなければならない。

つまり、さしあたってわれわれには、「心の重荷とは被害妄想的な幻想である。"重荷をおろす"には問題の根本的解決を必ずしも必要としない」という立場と、「心の重荷とは実際的な問題である。"重荷をおろす"には問題の根本的な解決を必要とする」という立場とが選択候補として与えられている。

このことから、心の重荷とのつきあい方のようなものが見えてくる。

心の重荷がある人は実存主義、ない人は本質主義をとるといい。

「とるといい」というのは、人生を懸けてその主義を貫き通せ、という強要では決してなく、心の重荷を解釈するに当たっての思考様式の選択くらいの、軽い気持ちでいい(と私は考える)。

重荷があるなら実存主義を

まず、心の重荷がある人がとるべき実存主義について。心の重荷について、こんなことを自分自身に尋ねてみるとよい。

「10年前の私は同じことを重荷と感じただろうか」「10年後の私はどうか」「あるいは死ぬ間際、同じことを重荷と言っていられる場合だろうか」もしいずれかの時点で「重荷を重荷とみなさない自分」が見いだせたらしめたもので、その時点の自分と現在の自分との差異に、"重荷をおろす"ための糸口がある。

しかし、もしあらゆる時点で重荷は重荷でしかない場合、他者にその重荷を背負わせてみるといい。歴史上の人物、肉親、物語の主人公、誰でもいい。これも前述と同様、自己との差異 = 解釈の仕方の相違 を見いだせたなら、そこに問題解決のヒントが隠されている場合が多い。それを徹底的に洗い、まねる。

それでも重荷は重荷でしかない、という人は多いと思う。あるいは、重荷は解釈次第でどうにでもなると理解したとはいえ、その解釈の凝り固まりかたが尋常ではなく、もはや自分ではどうすることもできない。 そんな状況に陥ってしまっていると。

そういう人は、解釈というものがいかに儚く、いかに脆く、いかに局所的で恣意的なのかを一度徹底的に学ぶことを薦める。哲学を学ぶのもいいし、単純におそらくは人類の思想の多様性に対する視野の広さが不足していると思われる。

(実存主義的に)重荷が重荷でしかないのは、「重荷を重荷と思わない自分」のイメージが「重荷を重荷と思う自分」より曖昧でぼやけているからだ。人は臨場感の欠ける想像は決して実現できない。

重荷がないなら本質主義を

重荷がない状態(健全な状態)を実存主義的に解釈するとどうなるか。「重荷がないのはそう私が感じていないからで、実際には、他人にとっての重荷 = 問題を抱えてしまっているのではないか」というような懐疑心が湧き出てきてしまう。

その点本質主義に立てば、「自分にとって重荷でないなら、それはもう重荷ではない」という清潔な安心感に浸ることができる。

自己中過ぎないか?

主義を自由に行き来するこの柔軟性はともすれば、単なる自己中心的な性格だと多くは言うだろう。

逆説的だが、気ままに本質主義を採用するという発想は実存主義的なのだ。それなのでこの記事はどちらかと言うと実存主義寄りだろう。

決して客観的で本質的な解決方法を求めていない人、とにかく重荷をおろせればいい人、すなわち孤独な人に読んでもらうとクリティカルヒットするんじゃなかろうか。

孤独な人間にとって、本質主義など無用の長物だからだ。本質主義者が追い求める「客観的な本質性」を尊重した所で、その価値を共有する相手がいない。

しかし、現実世界では時に、孤独を手放さねばならない。その際は臨時に本質主義者になればいい。社会というものはどうしても本質主義的になる。政治でもビジネスでも、客観的に承認されないものは実現されにくいからだ。

ゆえに社会では、自分がおろしたところで重荷は重荷のままで、誰かが代わりに背負う必要性が生じる。自分がおろした重荷の処理に追われている人間に「いや、その重荷を重荷と感じるかどうかはアナタ次第だよ」などとのたもうものなら、社会不適合者の烙印を押されたところで致し方なしと言える。

改めて使い分け方を提示する

まとめよう。

心の重荷に対する態度としては、そのあるなしに関わらず、孤独を愛するなら実存主義を、社会を愛するなら本質主義をとるといいかもしれない。

孤独である限り自分の認識こそが真理なのだから、客観性に重きを置く動機がない。重荷は自分にとって重荷でなくなりさえすればいい。

社会的にはそれはまずい。社会は私たちが重荷をおろすことに対価を求める。誰かがおろした重荷は誰かが背負わねばならないと社会では考えられているからだ。