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のべつまくなし

哲学と人生

積極的消極性1

雑感 書籍メモ

批判的に物事を見ることは、生産性や効率性の向上のためには欠かせない反面、批判主義一辺倒だとその批判の価値(正当性)が危ぶまれる。それはひとえに、批判することを前提にして意見を述べる人種の存在のためだ。

かといって物事の良い側面だけを見る「ご機嫌取り」のような態度もいただけない。表面的な部分の印象だけにとらわれて洞察を深めなかった結果、合理的な選択をしたり、改善の余地を埋めたりする機会を逸するかもしれない。

ある一定の主義に傾倒することは、その主義の反対に位置する何かを捨てている( = 極性には棄却が伴う)。かつ、その捨てている何かとは当たり前のように、他の誰かにとっての最優先事項でありうる。つまり、あるひとつの主義を取ることは、世界のだれかとの対立を選び取ることを実質的に意味する。

「どんな主義もとらない」という立場を突き詰めた結果生まれた主義ですら、極性を示してしまう。どんな主義もとらないという考えにおいて積極的(極端)だからだ。結局対立は避けられない。

あらゆる観点において極性を示さない立場、すなわち、あらゆる主義に属さない立場というものがあるとすれば、それは新たな主義と呼ばれるか、そうでなければそこにこそ私たちの求める真理が秘められていると感じる。

もっとも、真理は別に秘められているわけでも何でもなく、ただそこにあるのだろうが。秘められていると私たちが感じてしまうのは、ただ単に認識するだけの知的能力水準に達していないというだけだ。

試しにWikiの主義一覧ページに飛んでみる。このページですらきっと世界の思想のごく一部を切り取った形に過ぎず、途方もない思想の多様性をもれなく汲み取った人物などいまだかつて存在しただろうか。仮に居たとして、その人物は世界に何を見て、自身はどんな主義を取るのか。

全知全能の神がいるとすれば、彼にはその究極の主義とでもいえるものが(あるとすれば)見えている。更に言えば、直観的に、神はその究極の主義を実践している。全知全能性と究極性は切っても切り離せない関係にあるからだ。

おこがましくも人間が神に近づこうとするなら、まずはあらゆる主義を超越しなければならない。超越するためには知り尽くさねばならない。知り尽くすためには、根本的な知的様式を確立しないことには始まらない。

しかしここで問題がある。『グローバル化と知的様式』によると、

私たちが有する認識論あるいは方法論は、それを作り出す学問構造と一致し、その構造は私たちが組み込まれている社会構造全体を反映している。(258p)

私たちは世界一般に通用する認識論が存在すると思いがちだが、そうではない。日本には日本独自の、アメリカにはアメリカ独自の知的様式(=認識論や方法論)があり、私たちの物事の把握の仕方は、もれなくその特色を示す。

これは、「自分の意志で、世界から独立して得た、自分本来のものと信じているどんな認識論も、出身国の社会構造によって多かれ少なかれ左右された経緯を経ている」ことを意味している。

例えば日本出身の私が世界中のあらゆる主義を認識した所で、それは日本流の認識論を用いて主義に手を加えた代物であり、混じりっけなしの本質そのものとはなかなかいかない。そんな認識にどれほどの価値があるのだろうか。

この点について『グローバル化と知的様式』では、

この選択は、誰か他の人が私たちのために行うのではなく、私たち自身が行わなけばならないのだということを意識すればするほど、私たちは行動において自由を得ることになる。

と述べられている。ここで究極的な主義の可能性が見えてくる。

あらゆる主義を知り尽くし、また自分の中に本来的にある主義を見極めることで到達する、「いついかなる時にもあらゆる主義を自由自在に取りうる」主義に、極性は見いだせるだろうか。

つづく