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のべつまくなし

哲学と人生

誰も傷つけまいと欲張ると誰かを傷つける

他人をある程度傷つけ、悲しませ、苦しませることなしには、その人と真摯につき合うことはできないと思っている。ということは、自分自身も他人から相当程度苦しめられても、傷つけられても、悲しまされてもしかたないということだ。
- 中島義道『不幸論』 -

自己犠牲の精神は「美徳」と讃えられるべきものだが、それは確かな成果あってのこと。「自己犠牲的な自分に執着する」のは本末転倒であり、わざわざ犠牲を払っておきながら望む結果も遠ざかるという最悪のパターンにもなりうる。

たとえば、私たちはときに「他人が傷つくくらいなら自分が傷つこう」という自己犠牲的な態度に走るが、その裏にはいくつかの異なる心境が隠れている。

  1. 他人を傷つける自分でありたくない = 傷つける苦しみが大きい
  2. 傷ついた他人を見るのが後ろめたい = 傷つかれる苦しみが大きい
  3. 自分は傷ついても気丈に振る舞える = 傷つく苦しみが小さい
  4. 傷つくより傷つける方が精神的負担は小さいと思う = 傷つけられる苦しみが小さい

当然、いずれも苦しみを減らしたいという目的では共通している。しかしこれらの態度いずれにも重大な見落としがある。

自己犠牲的な人は、

  1. どちらか一方だけは傷つかねばならず、そうでない方が自動的に傷つける側になる
  2. 苦しみの総量は一定であり、自分の苦しみを増やせば相手の苦しみを減らせる

という誤った前提を知らず知らずに置いていることが多い。 「手軽に美徳が得られる」という自己犠牲の放つ魔力に目がくらんで、前提の存在に気付けないのだ。これは、自分以外の傷というものはえてして得体が知れないのに反し、自分の傷というものはそのおおよその状態を把握しておけることがもたらす安心感が大きいのだろう。

これらの前提はどのように誤っているのだろうか。

世の中には、自己犠牲的な人を見ているだけで傷つき苦しむ という心優しい人間もいる。そういう人に対する自己犠牲的な振る舞いはむしろ結果にマイナスの影響をもたらす。相手のためにやっていることが相手の苦しみになっている状態。

この場合、こちらが自己犠牲的になればなるほど、すなわち傷を許容すればするほど、相手もそれだけ傷を増やしていく。そして、相手が傷ついていると察知したこちらは、「更なる自己犠牲の必要性」に迫られ、更に多くの傷を許容する。負のスパイラルだ。

もしくは、自己犠牲的な人特有の「相手を傷つけたくないがゆえの当たり障りのない受け答え」も周囲を結果的に傷つけることがある。いずれにせよ、自分の自己犠牲性と相手の傷の多さが負の循環に落ち込んでいく点は同じだ。

そのような悪循環に陥ってしまう原因はといえばやはり、自己犠牲によって得られる成果への興味を失い、事実の観察を怠り、自己犠牲そのものの方に筋違いの価値を見出してしまったことにあるのだ。

相手を絶対に傷つけまいとする信念も、ある一線を超えると、いつしか相手を傷つけない自分の方、信念を貫き通す自分の方が大切になってくる。そんな自分をちゃんと否定して相手と向き合うことが、真摯に付き合うということではないだろうか。