のべつまくなし

自称本の虫。INTP型。

なまくらパンチで何を守れる

日本では無宗教者が多い。宗教の教義から授かることのできるような稀有な教訓や行動指針というものには、あまり馴染みがない。

それなので、無宗教な人は教訓を試行錯誤的に、ひとつひとつ別個に編み出すとともに社会の中で拾い集めることで、独自の信仰の総体を作り上げていると思われる。

武道でいうと、そのような人物の精神的能力はおよそ、手と足をやみくもに振り回して相手に立ち向かう我流の武術にも例えられる。護身術としても戦闘方法としてもほとんど役に立たず、有事の際には一方的にサンドバックになる場合が多い。また、我流の武術は悲しいかな、社会的弱者に振るう暴力としてたびたび用いられる。

対して、ひとつの宗教の敬虔な信者というのは、あらかじめ型の確立された武道にその身を捧げ極めた達人にも例えられる。型を持つ武道というのは、護身術としても戦闘方法としても非常に優れている。そして、礼節の精神をもその内実に取り組んだ武道は、我流の武術とは決定的に異なっている。達人はその卓越した武術を暴力に用いることは絶対にない。

私が宗教を武術に例えた理由のひとつは、大抵の武道ではその技術を暴力に用いることを禁止しているからだ。これはそっくりそのまま、戦闘時の圧倒的な優位性の確保を裏付ける。要は、それだけ危険な力を信者に与えるだけの懐と背景を、宗教(=武道)はもっているということだ。

しかし私はなにも、宗教への入信を薦めているわけではない。

そうではなく、何の心がけもなしに「我流の武術」で生きることは、スタイルの確立された武道を習うことより様々な点で危険であることを認識すべきであると言いたいのだ。

  • 無宗教者は力の使い方を教わらないどころか、力を使うという発想自体がない者も多い。その上、日常的に暴力を振るい、そのことに罪悪感を抱かない。これらは全て、仮に彼がひとつの武道と真摯に向き合っていたら取り除かれていたはずの人間的劣等である。
  • 我流の武術には目的がない。ただただなんとなく我が身を守り、ただただなんとなく弱者を虐げ己の優越を示そうとする。その無目的さゆえに、崇高な精神が宿ることはほとんどなく、楽に甘んじた怠慢な日々が積み重なる。武道ではそのような事は許されない。力を洗練させかつ制御できるようにすることの意義、またそれにあたり必要となる精神性を幼い頃から徹底的に叩き込まれ、厳しい鍛錬に耐え抜く姿勢を常に求められる。ものの10年でその差は歴然である。
  • 無宗教者の中にはまれに、我流の武術を実用レベルまでに高め続けた勤勉な者もいないではないが、 結局彼の武術というのは、さまざまな武道の方法論をいいとこ取りしたかのような、調和に欠ける出来損ないにすぎない。これは、武術の本質といったもののほとんどが、武道に織り込まれていることによる。

念のため言っておくと、以上で護身術、戦闘方法、暴力、サンドバック、などと言ったのは全て比喩だ。 ネット掲示板はいわば内戦地、SNSは我流の武術による暴力の温床。

人生とは程度の差こそあれ他者との戦闘であるから、さまざまな局面で自分の武術の練度が如実にものを言い、弱者ほど袋叩きに遭いやすい。

我流であり続けるのは個人の勝手だが、我流であるがゆえの困難性、そして武道を学ぶことの本質的な強みを十分に知ってからでも遅くはない。