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のべつまくなし

哲学と人生

悲しみの解像度

国境線の長さは、測定に使用した長さの単位によって異なる。かつてスペインとポルトガル間では、国境線の長さを巡って一悶着あったらしい。

数学的に言うと「細分の幅によって近似精度が異なる」となる。

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http://mathtrain.jp/daikeikinji

この画像で言うと、上より下のほうが曲線をより長く評価している = 細分が狭いほど曲線を長く評価できる。

国境線の例から見えてくる教訓(?)は、「細分を細かくして国境線をより長く評価すべき」ということではない。たしかに理論上は「細分が細かいほど国境線の正しい長さに近づける」のだが、現実世界で細分を無限小には出来ないので、正しい国境線の長さというのは実質存在しないことになる。

得るべき教訓としてはむしろこちらの方で、「客観的な正しい長さというものは存在しない」こと。そして、「自分本位な"測定結果"を相手に押し付けるべきではない」こと。

 

同様のことが私たちの悲しみについてもいえる。たとえまったく同じ体験を共有したとしても、悲しみの単位量は人によって異なるから、したがって感じる悲しみの量も異なってくる。

感受性豊かな人は悲しみの単位量が小さく、些細な事でも悲しみを感じる。細分が細かい。細ければ細かいほど、人より余計に悲しみがその心に流れ込んでいる。

たしかにそれはそうなのだが、人より余計に悲しみを感じるから優れているとか、悲しみに鈍感なのは劣等だとか、そういう論点を設けるのは全く馬鹿げている。ひとつのある体験に対して、客観的な悲しみの量というものがあるかといえば、あるわけがないからだ。スペイン・ポルトガル間の国境線の長さを客観的に測れなかったように。

また、自分が得た悲しみの"測定結果"を正しいものと思い込み、なんらかの目的で相手に伝えることがいかに愚かしいか。

悲しみの量はすべて主観量であることを誰もが理解すれば、独りよがりな被害者意識など生じる余地がなくなる。