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のべつまくなし

哲学と人生

やさし過ぎる人間の末路

甘やかせばつけあがる点では、人間はすべて子供みたいなものだ。だから人に対しては寛大過ぎても、やさし過ぎてもいけない。(中略)少々ぐらいはないがしろにするような毅然たる行動に出ても、そうそう友を失うものではないが、あまりに親切で気がつき過ぎると、相手が傲慢で鼻もちならなくなるから、そのために仲違いが生じ、その結果友を失うことが多い。

- ショーペンハウアー『幸福について』(新潮文庫) p.273 -

人間関係というのはやさしさの大きさのくらべあいみたいなもので、やさし過ぎる人間のやさしさがそうでない人間のやさしさより大きければ大きい分だけ、やさしさを持て余すようになっている。

一方やさしくない人間はなんら困らず、むしろ気分が良くなるくらいである。こちらにしてみればこの状況は、100円払うと150円をくれる機械を自由に扱えるようなものだからだ。やさしさの搾取とでも言える関係性がそこにはある。

「やさし過ぎる人間が割を食う」構図が現実でも物語上でもよく見られるのは、この事情による。同じ大きさのやさしさをもった人間同士の関係性などそうそう巡り会えるものではないのだから、大雑把に言えば、世の中の人間の5割が「過大なやさしさを持て余した人間」となる。

では やさしさの大きさはどのように決まるのか。やさしさの大きさは、生まれ持った気質、思考の傾向性、当事者間の交流の質、そして生涯をかけて培ってきた知力などに大きく依存する。重要なのは、やさしさの大きさは必ずしも先天的要因にのみ依存しているわけではない点で、これはやさしすぎる人間にとって「のみ」救いである(やさしさを搾取する側の人間にとっては不都合な事実)。

つまり、やさし過ぎる人間がその過大なやさしさを知性によって縮小させれば、やさしさの搾取の程度は弱まる。小さなやさしさを持つ人間は、やさしさの不労所得が減少する。この変化の方向性は一見道徳的に望ましくみえる。

しかし理想を言えば、やさしくない人間が、やさし過ぎる人間がやさし過ぎなくなるまで、やさしさを増大し続けるのが良いに決まっている。本来あるやさしさをわざわざ損なうことはない。やさしさの搾取は相対的な位置関係に起因する問題なので、一方が他方に歩み寄ればそれで解消されるのだ。

しかしこの点に対してショーペンハウアーはかなり厭世的で(詳しくは『幸福について』参照のこと)、「やさし過ぎる人間は、小さなやさしさを持つ人間との接触を避けるのがよい」という旨を書いている。先に引用したように、そのやさしさを縮小しない限りは、やさし過ぎる人間を待つのは友の喪失なのだと。