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のべつまくなし

哲学と人生

人生はフラクタル

哲学もどき 雑感

人生の豊富な比喩可能性

人生は〇〇に似ている、という文は質を無視すればいくらでも書ける。〇〇をランダムに決めてもおそらく書ける。

  1. 人生は建築に似ている。土台(基礎)はその人の信条にあたる。土台が確固たるものであればあるほど、その上への組み立てはスムーズに進む上、建築物の仕上がりは良くなる。世の中にはいろいろな建物がある。木造建て。鉄筋建て。外はとことん質素だが中に入ってみれば絢爛豪華な建物。建築途中の建物が壊されることもある。風通しの悪い家は湿気に侵され、土台の不完全な建物は災害にさらされてたやすく揺らぐ。
  2. 人生はピアノに似ている。ピアノは、精神と身体の調和をもってして初めてまともな音を奏でることができる。また、人によって「ピアノの調弦」の精度はまちまちで、調弦の具合が悪かったり、基準音のHz数が異なっていたりする他の「ピアノ」とは、協和音を奏でることが難しい。種類もまちまちである。電子ピアノだったりビンテージピアノだったり。人によっては打楽器的に弦を弾いて演奏しだしたりもする。限られた演奏可能性の中で人々は「音楽性追求」のための努力を厭わない。
  3. 人生は劇場に似ている。ひとりにひとつ、あてがわれた役を演じきった所でその幕は閉じられる。役を選ぶことは出来ず、自分という人間を生涯演じる。劇場の公演には自分以外に、共演者とお客さん、そしてスタッフという三種類の人間が存在するが、演者は、他者を共演者にするかお客さんにするかスタッフにするかある程度の裁量を与えられている。基本的には脚本家と演者の二足のわらじを履くこともできるが、大抵の演者は他の劇の様子を眺め、はやりのジャンルに追随する。脚本担当が自分でない場合もしばしばある。劇場内の他者は私という劇場とは別に個々の劇場をもち、そこでは主役を張っている。パラレルに並立する無数の劇場、それが人類であるといえよう。
  4. 人生は一局の囲碁に似ている。序盤の手は自由度が高く、勝敗への影響度もまあまあ高い。中盤では徐々に打つ手の選択範囲は狭まり、序盤の布石の打ち方が如実に物を言う。「ああ、あそこに打っておけばよかった」という後悔の念に最もとらわれやすい局面だ。そして終盤ではほぼ大勢は決しており、半目単位での熾烈な争いが繰り広げられる。あるいは勝敗は明らかで、自分の置いている石は全て死に石となっているかもしれない。この頃にはもう、どう足掻こうが一手一手の勝敗への影響力は限りなく低い。

これらの例は私のごくごく個人的な感性で書いているので、その内容に価値はない。今回のテーマは、「人生は〇〇に似ているという文が量産できる理由」の方だ。

人生はフラクタル

本来、建築、ピアノ、劇場、囲碁、というのは人生という一つの概念(集合)に含まれている概念のはずだが、その概念に人生を見ることができる。

この状態に限りなく近いフラクタル図形がこれだ。

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http://kamakura.ryoma.co.jp/aoki/paradigm/furactal.htm

枝全体が人生、ひとつひとつの末節が極める道にあたる。式に表すとこうなる。

建築 ⊂≠ 人生 かつ 建築 ≡ 人生

建築(ここで建築をどんな言葉に置き換えてもかまわない)は人生の真の部分集合であることに何の異論もないだろう。しかし、 建築 ≡ 人生に異論を唱える人はいるかもしれない。建築のどこが人生なんだ?

人生がフラクタルに見えるには条件がある

一つの道を極めている最中にあり人生が成熟していない間は、まだ視力が悪く人生という図形の解像度も、建築という図形の解像度も低い。だから枝葉末節の形がよくわからず、人生と建築が似ている図形であるという発想には至れない。しかし、次第に人生に焦点が定まってきた(ひとつの道を極め始めた)人間は、形が似ていないか?と思い始める。

ではそもそも、建築 ≡ 人生 がなぜ成り立つか。すなわち人生はなぜフラクタル図形なのか。これを最後に述べる。

建築を極める過程で、求道者が捧げているものはなにか。人生の一部である。では、建築という道を選ぶにあたり求道者が捧げたものはなんだったか。人生の一部である。

人生の一部を捧げるという行為は、「選択肢を把握し、そのうちのひとつを選ぶ」という行為、すなわち、「枝分かれを認識し、そのひとつの枝の先をみていく」という行為である。人生を歩むことと、ひとつの道を極めるということはどちらも、ひたすら枝分かれを細かくしていくことの連続である。よって 建築 ≡ 人生 なのだ。

あちこちの枝に浮気してひとつの枝を下っていこうとしない人間は、枝分かれの先に更に細かな枝分かれが続くこと、その階層化はいつまでも続くことを認識できず、したがって人生の自己相似性(=フラクタル性)にも気づかない。

そういう意味で人生は、「あるひとつの道を極め始めた人にとって」という条件付きで、フラクタルの様相を呈して見えるのだ。