時間軸によこたわる孤独

多様性の偉大さ

孤独な人間がこうむる必然的な損失に、こういったものがある。

  1. 他者のフィードバックを得られないために思考が非実践的になりがち
  2. 人格の多様性(相互作用)から得られる数々の恩恵に全くあずかれない

実社会においては「三人よれば文殊の知恵」のように、人格が異なる者同士が意見を出し合うことで、多角的に物事を捉えより好ましい結果を導く意思決定をしたり、創造性を刺激しあうことが可能になる。一方、人とのふれあいが絶無な孤独な人間は、余程の天才を除いては、この多様性がもたらす複眼的思考の水準には到達できない。

複眼的思考が必ずしも良い結果をもたらすわけではない。が、大抵の場合は多様性に身を委ねるのが手っ取り早いのが実状だ。

多様性の偉大さを端的に表したのが、ジェリービーンズの実験だ。

教授が大勢の生徒の前にジェリービーンズのたくさん入った瓶を見せ、瓶の中に入っている個数を予想させる。すると、生徒全体の予想の平均値は、正解に限りなく接近するのだ。

生徒の数が多い(≒多様性が豊かである)ほど正確度は高まる。平均値を取ることで極端な予想値はより強力にならされ、(正解値+k) と予想する生徒数と、(正解値-k) と予想する生徒数の比が、1:1に収束していくからだ。

これが多様性の主たる効果だ。これは私たちが意識するよりかなり絶大なもので、この例では数的だが、質的にも同様のことが起こる。

合唱がいい例だ。歌の訓練というのは長期を要するもので、2〜3年程度根を詰めた所で、単体で聴ける声になるのは難しい。1人で聴かせる声をもつソリストになるには何十年単位の鍛錬を積む必要がある。ところが合唱となると話は別で、聴かせる声を持つ人がごく少数であっても、合唱団全体としては卓越している、ということが起こる。これは、倍音の豊かな声、貧しい声、子音の立つ声、母音の鳴る声......、声の多様性によって声の音楽的な長所が増幅されるとともに短所が相殺された結果だ。

この多様性がもたらす効果を、孤独な人間はまるまる逃している。知的作業でも創造的作業でも、他者との相互作用を介入させることで得られた進捗がまるまる得られないのだから、その損失、非効率性は甚だしい。

しかし、ここで「よし、だれかと交流するか」とはならない程度に頑なだからこそ孤独な人間は孤独なのだ。したがってここでは、孤独ながらにして、仮象的にこの多様性を創出できないかあがいてみよう。

過去の自分は「別人」か?

知ることは死ぬことだ、と養老孟司は『バカの壁』で言っていた。何かを知ることで、昨日までと違ったものを世界に見る。これはもう、昨日までの自分が死んだのと変わらない。この考え方に着想を得る。

何かを知り続けて死に続ける限り、昨日の自分と今日の自分はもはや別人であり、自分という存在の時間軸に多様性らしきものが積み重なっていくことになる。この多様性から恩恵を引き出せないものだろうか。

とはいえ流石に、昨日の自分を別人とは言い切れない。では1年、2年と隔たった自分は確たる別人だろうか。学習いかんによっては別人になりえる、と私は考える。これを仮に「仮象的別人」と呼ぶ。

多様性を得るためには、仮象的別人に「会わなければ」始まらない。会うためには、過去当時が明確に記録されている必要がある。記憶を介してはならない。記憶の中の過去は過去そのものとは乖離しており、現在の自分が解釈を加えた捏造物であって、決して「仮象的別人」ではない。

今日自分という存在を詳細に記したうえで、さまざまなことを知り、死に続ける。するとその記録が、未来に仮象的別人として現れる。その時点で本人と仮象的別人という2人の人間が存在し、影響が生じる。

ここまでであらためて、他者との交流がいかに「手っ取り早い」かを再確認する私である。しかも、1年がかりで得た仮象的別人と私との間の多様性は、次の点で極めて心細い。

  • いくら別人とはいえ根源的な部分はかぶっているため、そこから引き出せる相互作用もたかが知れている。「仮象的別人 ∩ 私 ≒ 私」
  • あるいは仮象的別人と私とは、包含関係「仮象的別人 ⊂ 私」にあるかもしれず、その間の差分(別人性)にはなんの価値もない。「自分が持っていない他者との差異」が多様性のもたらす良い影響の根源だからだ
  • 1人の人間を詳細に記述しておける記録などそもそも存在しないので仮象的別人は別人としてのリアリティに欠ける
  • 別人(実在の他者)とは違って、仮象的別人からフィードバックを得ることは出来ない(私→仮象的別人→私 という情報の流れは存在しない)。つまり「相互」作用が得られない
  • その他、仮象的別人は本質的には私であることに起因するこまごまとしたデメリット(本人であるがゆえに生じる過大評価や過小評価、など)

絵空事にも程がある

もうめんどくさい。こんなこと考えるだけ無駄。考える間にも社交性のひとつも身に付けようとしろ、というのが私の結論だ。

あるいはこんな道もある。「今後一切、世の人間が多様性によって絶対的優位性を得ているあらゆる分野での突出を諦め、それ以外の場所で自己満足にふける」

多様性に全く頼っていない分野、というものがあるとすればそれは、孤独な人間に残された唯一の突出の道だろう。あるとすればね。