感慨と存在の矛盾

啓示?

先日、ちょっと印象的な出来事がありました。

静まり返った大学構内でのこと。2階の階段の踊り場あたりから、コツコツと何かを叩くような音が聞こえるのです。ほぼ無人でしたから、人ではない。そもそも人の発する音ではない。私は音の源を確かめたくなり、階段を降りていきました。すると、ツバメが窓をしきりにつついているのです。

たったこれだけのことなのですが、その音と光景は私の脳に鮮明に焼き付いてしまいました。なぜだろう。

ひとつには、音の神秘性があるでしょう。大学構内の階段は吹き抜けていることに加えて壁の材質も助けてか、異様に音が反響するのです。その日は快晴で、閑散とした日曜日の構内。枯れ葉舞う寒空から逃げてきた私は、心地よい静寂の中でぼーっとしています。その静寂を破る不審な音。色々な要素が神秘性を演出していて、大げさに言えば、私にはその音が神の啓示のように感じられました。これは自意識過剰なのもありますが、とにかく、そう言えてしまうくらい透き通ってそれでいて聞き馴染みのない音色が、私の意識を即座に占拠したわけです。音源を確かめに向かう私はなんだかワクワクしていました。

ふたつには、ツバメのひたむきさです。間近で観察できたのは時間にして1分くらいでしょうか。ツバメは、ひたすら窓をつついています。このツバメは何を思っているのか。ボロい窓ですから、仲間を引き連れて大挙すれば割れるかもしれない。このツバメは中に入りたいのだろうか。まあ、中に入ってもいいことはないよな。巣作りに適した場所探しの一環かもしれない。そういえば、こんなところに建物がなければ、ツバメはもっと繁殖出来たのかなあ。思いを巡らせているうちにツバメは飛び去ってしまいました。とにもかくにもその様子を見て、私は生命活動の尊さや力強さに思いを馳せました。

そして私は最終的に、人間の罪深さに思い至るのです。極端かもしれない。思考の飛躍も論理の誤謬もある。でもあの体験の直後、私が確信を持ってはじき出した答えは確かに、「人間はくだらない」でした。

別に、人間が絶滅すべきとは思いません。しかし人間の文明は「ただ生きるだけ」を大きく逸脱し、その逸脱により虐げられている生物、その逸脱がなければ繁栄を謳歌した種は一定数存在しています。

この手の主張(人間を地球の利己的な支配者とみなす)によく援用されるのが、屠殺場の映像だったり、絶滅危惧種の動物の生態映像だったりします。道徳的なテーマを掲げた番組で、コメンテーターが得意げに意見します。「種という観点では平等。人間が絶滅に追いやったとしても、それは大自然の摂理に則った現象というだけ。罪悪感など偽善的」「かわいそうだと思うのなら、肉の消費をやめればいい。菜食主義者でもないくせに。」

人間である以上、この話題に関しては、「筋の通った人間擁護」か「感情的な(筋の通らない)動物擁護」しかありえないのかな、と思います。動物擁護に筋は通せない。人類全体に対して人1人分の生命活動など微々たるものですが、それでも確かに人1人が生きることで、「余計に殺される動物」は確実に存在してしまう。「動物がかわいそう?じゃあいますぐ死ねよ」となるわけです(完全な菜食主義者ですら、文明的な生活を送る以上は動物の絶滅に"貢献"しています)。

この、感慨と存在の矛盾こそが要するに、私がツバメに抱いた罪悪感のでどころだったのかもしれません。生きているからこそツバメをかわいそうだと思う一方で、生きているのなら一定量は必ずツバメの住処を追いやっている。感慨が嘘っぱちでないことの証明は死を以てしか為せません。綺麗事を言っておいて何をするでもない自分。死にたがりながら生きている自分。より良い生を求めたがる自分。なにもかも含めて、私はツバメに謝りたい。

もちろん、ツバメは一概に人間に迫害されているとは言えず、実は人類によってツバメは守られているかもしれません。正しいことはそうそうわからない。ツバメは考えるきっかけに過ぎませんでした。

じゃあどうしろと

矛盾にも程度というものがあります。「AさんとBさんの牛に対する罪悪感が全く同じ」だったとして、大雑把にいえば、生涯10頭の牛を消費するAさんよりも、生涯11頭の牛を消費するBさんの方が、牛の消費について抱える矛盾は大きいように見えます。これを仮に矛盾の大きさと呼びます。

矛盾を小さくする姿勢を意識する、というのがこの問題のひとつの落とし所ではないでしょうか。短絡的な上の例をもう一度使うなら、Aさんが生涯の牛の消費を10頭から9頭に減らせば、1頭の牛が救われます(あるいは罪なく殺される1頭の牛が生まれてこなくて済む)。これは矛盾が小さくなったと言えないでしょうか。そして、生きる以上矛盾は0には出来ませんが、矛盾を小さくすることで救われる生命が確実に存在します。

ただ、それは罪悪感が0ではないという前提のもとでのこと。罪悪感が皆無な人間はしたがって矛盾もないですが、なにより"人間味"がないのです。