愚かしさを愚かしく捉えることの愚かしさ

人間は愚かな生き物だ。

以下では、「人間は欲求が生じればそれを充足させたがる」「あらゆる人間には多少なりとも欲求がある」ことを大前提としている。

人間の愚かしさの根源は、他者の存在によってしか欲求を充足させられないという原理にある。仮にこれを他者依存原理と呼ぼう。この原理は有性生殖と抱き合わせでヒトにインプットされている。

// もしヒトが有性生殖ではなく無性生殖によって子孫を残す生物だったとしたら、私たちのあらゆる苦悩など雲散霧消するだろう。

この命題への反論として、「孤独を好む人間も多い」という主張があるだろう。しかし、彼らも結局は他者の存在を前提としている。彼らが孤独を好む(孤独によって何かしらの欲求を充足させる)為には、「彼らが孤独を好む」ことを他者に知られている、ないしは他者に知られうる状態にある必要があるからだ。形式が複雑なだけで、彼らの孤独嗜好は確かに他者を経由している(そもそもこのような状態を孤独を呼んでいいのかという疑問が、今度は噴出する。ここでの孤独とは、巷で言われているところの孤独であり、私の言うところの孤独には「真に」と付ける)。

// このこと(孤独嗜好は他者を経由している)の帰結は、「真に孤独を好める(孤独により欲求を充足させられる)人間など存在しない」である。孤独を好む状態は真に孤独ではなく、また真に孤独であるならそれを好むことは出来ない。まあそもそも現代社会の成り立ち上、真に孤独である状態になることは難しく、真に孤独でない以上真に孤独を好むことは不可能ということもある。また、真に孤独な人間はもはや孤独ではない。例えば生まれた瞬間無人島に捨て去られ、生き抜いてきた1人の孤立した人間を考えてみる(不可能性は無視)。彼こそ真に孤独だが、彼の中にはもはや孤独という概念はない。他者という概念、およびその周辺概念がないからだ(孤独は他者の周辺概念)。

人間の愚かしさは多々あれど、上の他者依存原理から、かなり多くの愚かしさが派生している。

たとえば、「失って初めてその大切さを知る」なんて文句があるが、これもそもそもは、「自分の人生の幸福感を自分だけで創出している」という思い上がりがあり、自身の幸福感が他者によってもたらされていることを理解していないからだ。テクノロジーだのイノベーションだのと息巻く人類は、明日の環境変動で大気中の酸素がなくなったら大半は息絶える。人間は知らず知らず「酸素としての他者」に生かされている。

心理学の観点からひとつ例を挙げてみたい。人間の好ましくない認知の歪みのひとつとして、「結論の飛躍」がある。これは例えば、今日一緒に過ごした知人が気だるそうな顔をしていたら、その原因の可能性を考慮せず、「私と過ごすのは嫌なんだな」と結論付けるような、人間の心理的習性だ。知人はたまたま前日の夜、スポーツ中継に夢中になって寝不足だっただけかもしれないが、当事者はそんなことを思いもせず、ただただ自己嫌悪に陥る。

この愚かしさは、欲求充足の形式を認識することで緩和・解消される。「知人と楽しく過ごしたい」という欲求を客観視し、知人の機嫌が良いことがなぜ自分の幸福感の要件なのかを検討すると、いかに自分が利己的なのかに思い至る。知人に不機嫌であってほしくないのではなく、あくまで私が知人に不機嫌にされてほしくない。相手を被害者にさせたくないのではなく、自分が加害者になりたくない。「一緒に過ごした知人を楽しませられない」という不名誉が私の幸福感を損なうからこそ避けたい。そんな自分の精神構造を一旦はたから眺めてみると、なんとも浅ましい限りである。

こんな浅ましさを目の前にして、もはや知人の顔色など問題ではなくなるのだ。反対に知人がものすごくにこやかだったとしよう。つられて、自分の心が浮き立つ。しかし、この知人が実は自分のことを大嫌いだったとしたらどうだろうか。嫌われているという現実には気づかず、表面上の現象だけに一喜一憂する。要するに、自分の解釈と現実にギャップがあろうがなかろうが、人間は解釈の方の奴隷なのだ。

// 一方で他者依存原理は変わりなく、知人の存在を通じて幸福感を得ている事実は同じ。つまり、知人の顔色がどうだろうが、関わり方=形式は変わらず、機嫌の良さとそれがもたらす感情は上っ面の微々たる要素にすぎない。

そう思えば、結論の飛躍などしようがない。いや、結論の飛躍をした所でそれは愚かしさではなくなる、という方が近い。現実をそのまま解釈できる人間など存在しない。そこにはただただ一方的に表面的に欲求を充足させようとする利己性があるばかりである。

では、利己性は愚かしさなのだろうか。これは捉え方(定義)によるだろうからここでは問わず、利己性が他者依存原理を根源としていることを述べたい。

// 利己性=愚かしさとはならない、愚かしいかどうかを決めるのは利己性と利他性のバランス、と私は考える。どちらかを極端に追求するのは明らかに、最善の結果からはかけ離れている。しかしここで、結果の最善性なんて人によりけりだから、客観的な最善の結果など存在せず、人によっては100%利他的なことが愚かしくない(≒賢い=最善の結果)ということもありうる。そういう意味でこの問題は捉え方による。

一対一の他者との交流を考える。他者依存原理を前提とすると、相手は自分から、自分は相手から幸福感(欲求充足)を引き出す"しかない"。自分一人で勝手に欲求を充足させることなど出来ない。しかし充足させたい。すると、相手に手伝ってもらわねばならない。相手に手伝ってもらうためには、相手の幸福に寄与すべきだろう("べし"については別記事で語りたい)。原理だけを認めるこの構図において、自分の行為はすべて自己の欲求の充足の為の布石だと捉えられても仕方はない。すなわち、互いの行動はすべて利己的であると解釈して差し支えない。

還元的に、結局はこの2人の構図の重ね合わせが社会なのであって、誰かの存在が誰かの幸福に寄与しているのが人間社会だ。構図の本質が変わらないので、原理から導かれる利己性も変わらない。

最後に、他者依存原理は本当に"原理"であるかどうか。そもそもこれが示されなければ話にならない。

他者依存原理が原理であるためには、幸福感を自給自足する人間の存在を否定すればいい。

仮に幸福感を自給自足する人間が居たとしよう。彼は誰にも存在を観測されなくて構わない。また、一切の他者の存在を観測する必要がない。彼をPとする。

まず、Pは住環境によっては欲求を充足させていない。

仮に、Pが住環境によって欲求を充足させているとする。すると、少なくとも地球上には、Pの住む場所はない。地球の住環境は人類によってさまざまに手を加えられて変遷してきたので、いま、「ある地点に住める」ためには「人類がその地点に手を加えたこと」あるいは「手を加えなかったこと」が要請される。すなわち、地球上のあらゆる地点について、そこに住めるのは人類=他者のおかげであるので、Pは地球上のある地点に住む限りは、他者によって欲求を充足させていることになる。したがって、Pは住環境によっては欲求を充足させてはいない。

同様の論理により、食事、衣服、ライフラインなどの一般的な生活要素および、ありとあらゆる商品によってPは欲求を充足させていない。それらによって欲求を充足させることは、他者に依存して幸福感を引き出していることになる。自給自足が出来ていない。

残る可能性として、Pは欲求充足のために独自で編み出したシステムを所有し、従っていることが考えられるが、この可能性も否定される。そのシステムを与えたのは文明であり環境であって、決してPの内部で無から創り出されたものではない。Pも人間であるから、概念を扱うには他者に教育を施されなければならない。

Pが人間ではなく狼に育てられ、一切の言葉を扱わず、原始的な生活を送ったとしても、欲求充足のシステムが無から生じたものではないのは同じだ。

残る 更に狭い可能性として、Pは、生まれてからただ本能だけに従って生きてきたとする。無人島に捨て置かれ、眼前にある木の根にかじりついて、誰に教わることもなく食物により空腹感を満たせるようになる(不可能性は無視して良い。仮に不可能であるならそれで話は終わり)。唯一、この状態のPなら、欲求充足の自給自足は不可能ではなさそうである。

だがここでも、他者の存在は排除しきれない。ヒトは有性生殖により子孫を残すので、Pは本能的に、配偶子としての他者を求める。この本能を考慮した瞬間、Pの自給自足生活は絵空事となる。生活の構成要素すべてが、配偶子としての他者を求めるという目的に則った行為になっていくからである。こうなった以上、配偶子としての他者によってでしか欲求を充足させられない。

よって、自給自足者Pは存在しない。他者依存原理は普遍的原理となる。

本当に最後に、自分に見出したあらゆる愚かしさを他者依存原理に還元することがもたらすメリットをあげよう。

  • 生の本質に迫れる
  • あらゆる行為の化けの皮を剥がし達観に近づける
  • 良い意味で感情の起伏がなくなる

こんな原理に縛られた人間の不完全さを許容し、改善は諦め、原理を活かすことを考える。愚かしさを取り除こうとすることが賢いのではなく、愚かしさを活用できることが賢いのだ。

「弘報筆を選ばず」ではないが、私たちが幸福になるのは、くたびれた筆を使いこなして美しい文字を書くようなものであり、幸福を追い求めるにあたり必要なのは技術の練磨であって、筆を手入れしたり、よりよい筆をないものねだりすることではない。筆の劣悪さは所与のもので決して変えられない。

まずは、何が「技術」で何が「筆」なのかを見極めねばならない。