のべつまくなし

自称本の虫。INTP型。

検索エンジンの価値を疑うこと

検索エンジンによる情報収集は今や当たり前になったが、目的によっては検索エンジンは手段として最適ではない。私がそう思う理由を書いていく。

需要と供給の原理が世界の根本だ

資本主義に深く根付いた需要と供給の原理は、経済学の根底どころか、私たちの人生の根底となっている。私たちが今日生きる為の糧は誰かによって供給されており、あなたが払った対価は供給者の懐に収まる。

この原理はほとんどすべての行為に当てはまる。一番簡単なところだと、食生活だ。人間は食べないと生きられない。食品を買えば農家や牧場、加工業や卸売業といった人たちにお金が入る。着る服も住む家も同様だ。

原始的な行為ではなく現代的な行為でも原理は一貫している。あなたはいま機会費用を払ってこの文章を読んでいる。文章の供給者である私は読んでもらえるという恩恵を得ているし、サーバーの提供者は維持費用を得ている。あなたのアクセス履歴は追跡され、企業のより最適化されたネットサービスの実現に寄与する。あなたは需要者であると同時に供給者だ。

思考などの行為も、需要者と供給者が同じであると考えれば一応原理は見いだせる(哲学の話になっていきそう)。

検索エンジン最適化の弊害

話を検索エンジンに戻す。私たちはボックスに単語を打ち込む。それに対して検索エンジンは情報を供給している。Googleは今日もエンジンの最適化を進めているだろう。ところでこの最適化とはつまりなんだろう?

エンジンの最適化とはつまり、需要者が端的に需要を表現した検索ワードをもとに、できるだけ需要に則した情報を供給できるようにすることだ。

この最適化こそ、検索エンジンのつけ入る隙だ。検索エンジンは「私」の局所的な需要に正確に答えようとしているわけではない(結果的にはそうなっていることは多いけれど)。エンジンの相手はあくまで「人間」の平均化・平準化された需要だ。

つまり、私が「Google」と打ち込んで得た検索結果は、「Googleと打ち込んだ人が一番欲するであろう情報」になる。これの何がつけ入る隙なのか。

検索エンジンが最適化されればされるほど、それを使う私たちが 平均化・平準化された情報=ありふれた情報 を掴まされる確率が高まる。そして、私たちが検索エンジンを使えば使うほど、私たちの脳内の情報空間はありふれたものになっていく。

するとどうなるか。吐く言葉、発揮する創造性、する表情。ありふれた情報に沿った行為何もかもがありふれる。アウトプット何もかもが凡庸さに蝕まれていく(もちろん、そういう傾向があるというだけで、個性豊かな人の保有する能力とありふれた情報とが、稀有な化学反応を起こすこともあるだろう。だがそれは珍しい。そういったことを大多数が出来ないからこそ、個性豊かな人は個性豊かな人なのだから)。

別に凡庸さに蝕まれようが知ったことはないという人もいるだろう。だが、そういう人が情報の供給側に回るのが現代のネット社会だ。検索によって得たありふれた情報をありふれた見地と形式によって"ありふれさせる"。結果、世の中の情報市場の効率性は損なわれ、ありふれた情報を知る人はより多く、ニッチな情報を知る人はより少なくなる。

情報の供給者側の姿勢

情報市場でも例に漏れず需要と供給の原理は成り立つから、ありふれた情報の価値は低く、ニッチな情報の価値は高い。これと情報の特質性(非物質性、伝達性、不可逆性)が合わさるとどうなるか。価値の低い情報ほどすぐ耳に入り、価値の高い情報には決して容易にはたどり着けない。逆もある程度は成り立つ。受動的に受け取った情報の価値は低いことが多く、苦労して得た情報の価値は高いことが多い。

このことから、情報の供給者側としてとるべき立場が見えてくる。自分が苦労して得た情報を中心に発信するとともに、容易に知ることのできる情報は極力省く。そうすることで情報の需要者の時間効率が高まり、結果的に供給者の得る対価は大きくなる。こんなことはごくごく当たり前の事実だが、意識している人間は少ない。

私の言いたいことをまとめる。インプット側、つまり情報の需要者側にとって、検索エンジンは今日何物にも代えがたい。一方で、アウトプット側、情報の供給者側にとって、検索エンジンの価値はないとまでは言えなくても、限りなく低い。

// なにも検索エンジンに限った話ではない。話題の新書、ランキングトップのニュースアプリ、人気のSNS、……。度数の高い存在何もかもにあてはまる。あるものが人気となることと多様性が損なわれることとは表裏一体だ。