のべつまくなし

自称本の虫。INTP型。

三角形であれたら

自分を定義するとはどういうことか、よく考える。

最近読んだ本に二分論という言葉があったので、ちょっとそこから話を膨らませてみたい。

この世はわかるものとわからないものだけで出来ているとする。「だけ」というのが大切。

私とは、世界のわかり具合である。この世界の要素をすべて、わかるものとわからないもの"だけに"分けるとき、その分け方が私を定義している「ように見える」。

二分論的に分ける、という条件のもとなら、{わかるもの全体}、あるいは{わからないもの全体}という集合も、個人の定義になりうるように見える。{わかるもの全体}を世界から残らずすくい取ったとき、残ったものが{わからないもの全体}となるから。

単純化して、いま、世界を

W'={暗闇,写真,分度器,思い出,私,彼}

という集合とする。ここで、言葉という概念が含まれないのはおかしい、集合という概念が含まれないのはおかしい、世界という概念が...などツッコミどころは無数にあるが、仮にそうなっていたとする。

この世界W'において、わかるもの全体として個人を定義する。私と彼を

私={暗闇,写真,私}
彼={写真,分度器,私}

と定義する。私には暗闇と写真と私、彼には写真と分度器と私がわかり、私には分度器と思い出と彼が、彼には暗闇と思い出と彼がわからない。

私の定義がそうあることに疑いはないが、彼の定義は彼にとっての彼の定義にすぎない。仮に私が彼を「分度器についてしかわかっていない人間」だとみなしていた場合、私にとっての彼の定義は

彼={分度器}

となる。同様に、彼にとっての私の定義は

私={写真,思い出,私}

かもしれない。つまり、「私にとっての彼」という確かな「私らしさ」が定義に織り込まれていない。これは定義としていかがなものか。

そこで少し手を加えてみる。いま世界Wに人間は私と彼しか居ないから、私の定義として

私={{私にとっての私のわかるもの},{彼にとっての私のわかるもの}}

を用いる。同様に

彼={{彼にとっての彼のわかるもの},{私にとっての彼のわかるもの}}

とする。 すると

私={{暗闇,写真,私},{写真,思い出,私}}
彼={{写真,分度器,私},{分度器}}

となり、より「私らしい」定義となったではないか。

この単純な例から、「自分の認識だけを用いて自分を定義するよりは、他者の認識も定義に取り込んだほうが、より実態に即した定義になるのではないか」ということが言えそうである。あるいはその表現は正しくなくて、「自分の認識だけでは自分を定義しきれない」とも言える「ように見える」。

しかしここでひとつ問題がある。世界W'には私のほかに彼しかいなかったからたまたま適度な定義になっただけかもしれず、実際の世界Wは集合として遥かに大きく、他者も多数含まれるから、私を定義するにあたり「他者にとっての私」が定義の大半を占めることになる。

より「私らしい」定義をしようとしたら、私を認識したすべての人にとっての「私がわかるもの」を考慮しなければならない。私を産んだ人、私と言葉を交わした人はもちろん、街の雑踏で私を一瞥した人、統計データとしての私を処理した人。間接的にしろ直接的にしろ、私の存在を知り得た人すべてだ。

なんだか清潔ではない。もっと私をそのものズバリで表現できる定義はないものか。

ここで初めて考えを改めるのだが、そもそも「他者にとっての私」は「私らしさ」だろうか。「他者にとっての私」をわざわざ「私らしさ」として書き添える必要があるだろうか。世界W'の例では安直に「彼にとっての私」は「私らしさ」として考慮してしまったが、「彼にとっての私」を決定づけるのは「私にとっての私」以外のなんだろうか。何もないではないか。

つまり、結局は世界W'において

私={暗闇,写真,私}

でしかなく、

私={{暗闇,写真,私},{写真,思い出,私}}

という定義は

三角形=「「同一直線状にない3点と、それらを結ぶ3つの線分からなる多角形」,「おでんの具の調理に際し、よく採用される形」」

みたいな冗長なものだ(引用元: 三角形 - Wikipedia)。説明としては間違っていないが定義となると話は別だ。

以後、定義を≡、等しさを=を用いて表現する。

私≡{暗闇,写真,私}

でしかない。でしかないが

私=「暗闇、写真、私がわかるだけの人間」

ではない。

私={{暗闇,写真,私},{写真,思い出,私}}

なのだ。だが定義は

私≡{暗闇,写真,私}

で間違いない(くどい)(ここにゲシュタルト効果らしきものを見出せる)。そして同じことは世界Wでも言えるのだろう。

すなわち「他者にとっての私」とは、「「私が定義する私」をもとにしたなんらかの印象郡」であって、定義に依存こそすれ独立して存在しており、したがってわざわざ定義に盛り込むものではない。

私にとって私は三角形である。だが、ある他者Aにとって私は標識かもしれないし、他者Bにとって私はおでんの具かもしれない。