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のべつまくなし

哲学と人生

怒りは報われるか

怒りは報われるか否か。

その前に、そもそもの分岐点として、怒りを表出させるか否か。表出させるとしたら、怒りの対象となる人物、または怒りの対象を生み出している更に他の対象に、怒りが伝わらなければ、報われるか否か、という段階に話が進まない。

いま、「怒りの原因が根絶されることを目的に、根絶を望んでいるという意思表示のために、怒りを表出させる」「怒りが報われるとは、怒りの原因が根絶させられ、自分の怒りが跡形もなく収まる」としてみる。

それでは、私が怒りを表出させる対象とはなんだっただろうか。ここまで考えて困った。そもそも私は、怒りを表出させたことがない。怒りという感情を微塵も表情に出さず、完全無欠ににこやかに生き抜いたわけではもちろんないが、今回問題にしているような原因根絶のための怒りの表出は少なくとも、一度たりともない。

では、私が怒りを表出させられたことは?一番最初に想起されたのは、学生時代の担任の説教だ。私の担任は、やれ自主性が足りないだのやれ協調性を意識しろだの、私の一挙手一投足にいちゃもんを付けてはやる気を削ぎにかかってくる天才だった。

果たして彼の怒りは報われていたのだろうか。私に言わせれば、報われていないのだ。彼の怒りの根源たる私の精神性は、今日も変わらず私に息づいているからだ。私がいまあの人の前に、あの日と同じように放り出されたら、あの日と同じように私という存在が彼を怒りに駆り立てるのだろう。「根絶していない」のだ。彼の怒りによって私の精神性は、萎縮して一時的に影を潜めていただけにすぎない。

私としては彼の怒りにはなんとしても報われてほしいところだが、誠に遺憾なるかな、彼の説教のピークの赤ら顔以外は、当時のことなど説教の内容含め忘却の彼方だから、偶然、私の特定の精神性が変調をきたすということがない限りは、彼の怒りは永遠に報われないままということになる。

ところで、怒りをコントロールすることに焦点を置く記事ばかり目につくのは、私の情報収集が限定的だからなだけだろうか。

怒りを爆発させるのではなく、存在を認めて健全に利用するためのヒント5つ | ライフハッカー[日本版]

「キレそうになる怒り」を利用して人生の生産性を高める5つのステップ | ライフハッカー[日本版]

例えばこの記事などそうなのだが、徹底して「怒る側」がどうにかこうにか自分を宥める努力をすべきだという論調が強い。逆に「周囲の怒りに気づく方法」だったり、「世の中の多くの人が怒りを買っている事象の根絶に踏み切る」ことを目的としている記事だったり、「怒られる側に非があるからなんとかせよ」、という方向の意見は、あまり見かけない。

徹底して怒りは悪。怒りは敵。そうみなす人が多いのだろうか。

確かにダニエル・ゴールマン『EQ〜こころの知能指数』によると

怒りは最もコントロールが難しい。他のどんな不快情動よりも人をそそのかす。

怒りは"扁桃核による強力な脳のジャック"らしいから、そもそも怒りが正当な理由に端を発しているかがかなり疑わしい。上の記事のような立場は、怒りの正当性を認めない、または自主的に疑えと言っているのだろう。

「原因根絶のために怒りを表出する」という意識が伴った怒りは、あまり現実的ではないかもしれない。

そうなると話が変わってくる。「怒りの原因が根絶されることを目的に、根絶を望んでいるという意思表示のために、怒りを表出させる」という前提を満たすことが難しいということになってくるから。

その前提は排除しよう。世間一般の怒りは報われるか。すなわち、目的意識のない"扁桃核によるジャック"は、怒りの原因を、根絶しうるだろうか。

場合によるだろうが、目的意識が伴ってさえ、怒りというものの性質上、根絶は困難なのに、目的意識が欠けたとなっては報われるのは絶望的か。

怒りは報われない。という結論を私としては掲げてみる。

 

 

すると「怒りは報われなくて当然」だから、怒られる側は「報われない怒りという非生産性を抱えていない分優位」で、怒る側は「怒りが報われると期待するだけ損」。すると世の中というものはなんとも、報われない怒りに満ち満ちた殺伐とした不毛な世界に見えてくる。一方で、怒りの対象たる人々は、怒ることの苦悩とは無縁に飄々と生きている。

そんな世の中でいいのか。いや良くない。怒りは報われるべきだ。その為には、怒る側の目的意識、そして怒られる側の意識の変化が必要だろう。

ここで私の意識はかつての担任に戻る。私には何ができ、どう生きればあの赤ら顔は報われるのだろうか。考えたところで答えはでない。出た所で自己満足の域は出ない。報われるなんてのは報われた側の主観であって、私が客観的に怒りが報われたか否かを判断する術はないのだから。

ああそうか。その辺だなぁ。結局主観的な判断でしかないのか。あの担任は私が萎縮するのをみて、「はいこの怒りは報われた」と主観的に悦に入っていた可能性を忘れていた。