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のべつまくなし

哲学と人生

「閉塞できない人」が閉塞感を振りまく

悪政に導かれる民衆、という構図は見誤りで、怠惰な民衆をしょうがなく導く政治、の方が日本の現状をよく表している。責任転嫁だけに長けた愚者に対して、誰かが悪役を演じ、矢面に立たなければならない。今はそれが首相というだけ。

働き方改革が本当に必要か?成熟社会で生産性が頭打ち?残業削減が喫緊の課題?どれも真実味に欠けているようにみえる。それらは本当に構造(制度)の問題なのか?

構成要素の問題だろうと。頭が〇〇な人が多いだけだろう、と。例えば残業を規制したところで、その規制の範囲内でまたヒイコラ言いだす人達はおそらく消えない(かといって、構成要素に働きかけるには構造の変革以外にないのかもしれないのだけれど)。

 

 

 

私の狭い視野にすら、愚者は溢れている。かくいう私もどうしようもない愚か者だが、この愚かさの責任を政治に問うつもりは少なくとも毛程もなく、むしろ日本という環境の恵まれ具合に感謝している。愚かでありながらのうのうと生きられるこの環境に。

環境は十分整っており、それを活かす器が多く育っていないだけと感じる。多く育てられていないのもまた現環境なのだが。

日本はいま、愚かさを許容し過ぎているのだろうか。私ごときを生かしてなお、この国は国際的に成長しうるのだろうか。

諸悪の根源たる私のような存在が健全に淘汰されるような日本の未来を願っている。愚かで怠惰な人間は野垂れ死ぬべきだという考えは私の中に一貫してある。

/*まあ、愚者が淘汰されたところでその生き残りの下位数%がまた落ちぶれるだけだろうが。働きバチの原理は、愚者には愚者なりの存在意義がなくもないことを示している。それでも、ある程度の淘汰の先には全体の成長がもたらされる。愚者は短期的には不要だが、長期的には必要なのだ。*/

私の見渡す限り、卑屈な愚か者は日本には少ない。いま日本を蝕んでいるのはむしろ、「私だけは大丈夫」という虚妄にとらわれ、あろうことか不当な前向きさを自足する種類の愚か者だと思う。

彼らは本来恥ずべき愚かさを恥じず、本来苦慮すべき浅ましさを苦慮しない。恥や苦慮がなければ、能力や効率性の低さを解消しようというダイナミクスも生まれようがない。

そんな愚者の埋め合わせをするのは、恥ずべきを恥じ苦慮すべきを苦慮する、勤勉で良識ある人々だ。彼らは余計に背負っている。閉塞感があって当然だ。

この種の愚かさは無知に端を発する。無知がそうさせる。人間、知っていないだけで絶対に出来ないことが意外と多い。知っているだけで簡単に出来ることが意外と多い。

そしてそもそも無知は教育の質の低さに由来する。少なくとも未来の世代はまともに育って欲しいから、もう野垂れ死ぬべくして野垂れ死ぬような人間は放っておいて、子どもの教育に投資すべきと心から思う。人口に関しては、むしろ減るくらいが丁度いいという意見に賛同する。

小中学校の教員の劣悪な労働環境をなんとかしてほしい。過労傾向の教員がまともな教育を実現できるとは思えない。いたずらに愚者予備軍を輩出するだけの構造を放置していいのか(そう、こっちは本当に構造の問題)。

小中学校の教師7割、週60時間超勤務 運動部顧問は「午前7時前に出勤」も

/*ところで、こういう時代にうまく振舞って結婚し出産するような夫婦はおよそ優れた精神の持ち主だろうから、子どもも望ましい精神を育むだろう。少子化はさしたる問題ではない。少数精鋭。彼らに高い生産性を期待し、その期待に応じて存分にお金をかけておくのがよさそう。*/

結晶の飽和

音楽でも文章でも、文化的なものは何でもそうだが、私たちが楽しめる形、感覚できる形となる前にそれは、個々の素材(概念)だった時期を経ている。

つまり、個々の概念の単なる寄せ集めでは意味がない。素材を選択し配列することで個々の総和以上の価値を持った何かにこそ、人々は惹かれる。

それを「文化的なものはみな結晶している」と表現してみよう。結晶は個々の素材に分解してみれば何の変哲もない分子だが、それらが秩序をもって規則的に並ぶことで価値(美しさや空間的効率性)が生まれる。

私たちが意味伝達においてなにか有意義なことを為したいと考えるなら、この概念群の結晶化は必要不可欠だろう。

有用さだけでは物足りない。自然本性的な美しさをどこかで織り込みたい。現にそういうものが、歴史上選ばれてきたようにみえる。

いま世界は豊富な素材で満ちている。素材には事欠かない。

しかし、素材の豊富さは必ずしも結晶の質の高さに寄与しない。現実はむしろ逆で、情報の雑多さ、過度の流動性ゆえに、不純物が入り込んだ出来損ないの結晶が量産される。

一方で、一握りの天才たちは手を抜かない。世界には純度の高い結晶の作例がうずたかく積み上がっていく。劣悪な結晶の作り手はますます肩身がせまい。人々はもちろん、より質の高い結晶に興味をそそられるからだ。

ところで、質の高い結晶を作るためにはいくつか要件がある。

  1. 質の高い素材を集めること = 判断力、知力、場数(経験)
  2. よい組み合わせ方をすること = 創造力
  3. 結晶化に適当な時間をかけること = 根気、気の長さ、"時間が解決するもの"

これらを踏まえて、今後の文化の動向を"結晶的"に考える。

飛躍的に進歩したAIは1を満たし、成熟したネット社会の集合知的振る舞いは2を満たすと思われる。

すると、質の高い結晶を少数の天才だけに待望することはなくなるかもしれない。少なくとも(例えば音楽や文芸といった)既存の枠組みにおいては。

その場合、幅広い人々がその才能によらず質の高い結晶を次々と生み出せるものだから、もうそれらは質の高さを保持できない。結晶は値崩れを起こす。

現代が情報(素材)の大量消費時代なら、次代は結晶の大量消費時代だろうか。

そんな世界において「創造性」とは現在のそれよりひとつ次元を高くした概念を指す。天才のハードルはますます高くなる。現代における天才が未来においては凡才ということもざらに起こるだろう。

唯一付け入る隙は要件1にあると考える。

AIが到底質が高いと判断し得ない素材に可能性を見出し、それを結晶化する。

例えば倫理学や哲学など、価値基準を機械言語に変換しづらい学問体系における結晶の価値の下落は比較的緩やかだろう。

やる気は出るもの

「やる気を出す方法」なんて言葉で溢れている昨今。

もういい加減うるさいよ。もう聞き飽きた。私はなんとしても「やる気は出すもの」という価値観を破壊したくなってくる。

そう。「やる気は出すもの」とはあくまでひとつの価値観、信仰であって、真実ではない。

真実でない考えがなぜこんなにもてはやされるのか。それは「やる気は出すもの」としておいた方が金になるからだ。

人々はやる気を出したいがために栄養学の入門書を読む。エクササイズに励むために上等なウェアを買う。脳科学を謳った書物にやすやすと手が伸びる。それらはもっともらしい。当然だ。マーケターらはもっともらしさの演出のプロであり、その巧拙が損益を分岐する。

やる気ビジネスは今後も、人々のうわっつら浅いところだけを取り上げては、また新しい金脈へと移行していくだろう。核心には決して触れないままで。奴らはふんだくれる内にふんだくる魂胆だ。

だが奴らの命日は近い。本質に背いたビジネスは絶対に生き残らない。淘汰の原理は正しくなかった試しがない。

まあしかし、私はビジネスを貶すつもりは毛頭ない。たちの悪さはむしろ、そんなビジネスに金を払う無知さの方にある

真新しさは無知な人々にとって上質なもっともらしさである。彼らは未知のものにとんでもない価値が秘められていると思いたがる。なぜなら、そうであるなら彼らのしょうもない人生にも説明がつくからである。彼らはおめでたい。彼らは既知の延長線上にこそ価値があることを知らない。根気がないから未知に甘えるしかない。

科学という名の権威にも人々は弱い。科学的な裏付けがあるからといって、それが自分にとっての本質にそぐわないと何の意味もないことを人々は見落としがちだ。

SNSによる口コミ効果、ニュース記事のネットによる拡散力も今日では影響が大きい。知人や有名人や知識人が効果を絶賛する方法論。あたかもそこに自分の人生の救済があるかにみえる。数の効果がそう見せているだけなのに。

つまり、資本主義経済下、情報社会ではますます、私たちの感じるもっともらしさが本質に根ざしている可能性は低い

無から生まれた鶏

では、私がやたら繰り返す本質とはなにか。

私は「やる気は出るもの」と信じている。

ただし、最初から自然にとはいかない。意識的な努力はある程度必要だが、ある段階に至ったらあとはもう「やる気は出る」。 その点で「やる気は出すもの」信仰とは一線を画す。

その核となる考え方は

  1. 真の動機は自分の内側にあり、あなたはそれを熟知しているはずだ。特に、幼少期の体験をあたるといい。決してそれを誰かに教えてもらうことはできない
  2. 好みのものにやる気を出すのではない。やる気が出るものを好むのだ

私たちは興味があるものを深く知ろうとする。そして、深く知ったものには興味が維持される。

この深い知強い興味はいわば鶏と卵みたいなもので、お互いがお互いを生みだす。

どちらが先に生まれたかなどはこの際どうでもいい。重要なのは、元を辿れば、最初の"卵"は無から生まれた点である。あるいは、最初の"鶏"は無から生まれた点である。深い知と強い興味のサイクルの始点は無条件的だ。

この無条件性は才能と呼ばれているものであり、私がやる気の根源とみるものである。

物心ついて間もない4歳の少年は星空に魅入られ、天文学を志した。別の少女はピアノを弾き始めた。また別の子は絵を描き始めた。そこに理由や因果関係などなく、あるのは純然たる才能だ。

才能に耳を澄ませることが、やる気が出ることに直結する。俗っぽくてあまり良い言葉ではないが、向き不向きを受け入れるということだ。

やる気が出ることが向いている証なのであって、やる気を出そうとした時点で既に向いていない可能性が高い。そして、向いているものの中に人間の求めるものはある。

「やる気は出すもの」信仰は、いわば自分の本来の傾向性・適正への反逆である。

やる気の真贋

そうではなく、やはりやる気は出すものだと。自分本来の傾向性に牙を向いてでも手にしたい価値がそこにはあるのだと、そういう人も少なくないだろう。あるいは、やる気を出す必要性に迫られた人。

そんな価値観を私は断固否定する。そんな現在の延長線上に望む未来などない。断言してもいい。

自分本来の傾向性こそが幸福感など人間の求めるものの源泉であり、それを軽視することは自分の首を絞めるようなものだ。

"無から生まれた鶏"に卵を産んでもらえるのに、"無から鶏を生もうとする"必要がどこにあるというのだ。

興味がないことを知る必要はない。知らないことに興味を持つ必要はない。無理にそうしてみたところで、そこに関するやる気は決して持続しない。

やる気は傾向性のサインである。自分の傾向性を最大限認識し尊重できた時、やる気は出る。逆に言えば、それができない限りは偽物のやる気しか出ない。

偽物のやる気と本物のやる気の区別の仕方を最後にみておこう。

  • 偽物のやる気はそれを得るために出費を伴う。本物のやる気はむしろ自分に利益をもたらす。
  • 偽物のやる気は出すもの。本物のやる気は出るもの。
  • 偽物のやる気は決して持続しない。本物のやる気は持続し、場合によっては無尽蔵に増えてゆく。
  • 偽物のやる気は他者によって容易く揺らぐ。本物のやる気はあらゆる他者によっても影響を受けない。
  • 偽物のやる気は未知と関わり深い。本物のやる気は既知と関わり深い。本物のやる気を私たちは既に知っている。
  • したがって、偽物のやる気は臆病さと、本物のやる気は勇気と密接な関係にある。
  • 偽物のやる気は悪い意味で理屈っぽい。本物のやる気は非言語的、直観的。
  • 偽物のやる気はどこかしら醜くぎこちない。しばしば苦痛を伴う。本物のやる気は美しくなめらかで、喜びに満ちている。

わかってないのはいつも自分の方

人間はガラクタじゃない。一見どんな好ましくない性質を備えた人間にも、道理があり心情があり、一貫性があり背景があり、故郷があり親があり、本質があり信条がある。

それら真実を根も葉もない想像でうやむやにし、都合の良いレッテルで分類し、価値を好き勝手歪めるのはいつも自分の方だ。

他者はつねにただいるだけで、自分に一切の意味を押し付けてこない。どんな解釈も強要してこない。

他者を解釈し意味を付与できるのは自分しかいない。したがって、意味の取り違いも自分の中にしか生まれえない。

あらゆる他者は整合性を備えている。なぜなら生きることは整合的だから。

ある他者が整合性を備えていないように見えるのは、自分の解釈に整合性がないというだけ

性格や容姿、言動といったわかりやすい外観だけを用いて人を判断しようとしても無理がある。それらは互いにたやすく矛盾する。もっと根深い部分に目を向ける必要がある = 止揚の考え。

もちろん、他者の整合的解釈が成功したところで、自分が真実を見ていることの保証にはならない。整合性を虚構することもできる。

しかし少なくとも、整合性のある(とみなせる)他者に対しては、尊敬の気持ちが生まれてくる。

これこそが大切であって目的。整合的解釈はそのための手段。だって、他者そのものと自分の解釈が紛れもなく一致していることを確かめる術がない。

他者が自分に意味を押し付けなかったように、自分も他者に意味を押し付けることはしない。

 

 

 

 

なぜこんなことを書いたのかについて。

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相手に整合性さえ見出せたならもう許容する以外ない。争う理由がない。ゆえに、争うのは相手の整合性を汲み取れていないから。

= 人々の争いの種は、相手に整合性を見出せないことではないか。

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根本には、私のそういう考えがあった。

本来ある整合性が見えないから争う。そんな悲しい、馬鹿げたこともそうそうない。

あるいは人は、整合性を認めた上で、その整合性の種類のいかんによって、争いの元になるような感情を抱く。

こうなると別の問題だ。これは私とは全く感じ方が違うことの現れだから、私の理解の範疇ではない。私は、あらゆる種類の整合性は美しく尊敬に値するものであると考えている。

 

 

 

 

 

最後に。

人間って本当に整合性あるの?という点について。

それについては、自分がそう思えばあるというのが落とし所。

神の創造性とか宇宙の意志とか、そんなものを肯定する気持ちもさらさらないけれど、かといってそういう類の発想を完全に否定すると、なんだかギクシャクする。

「人間ってすごいなあ〜」という畏怖をどこかしらで無条件に持ち込むと、なんだかとても安らかなのである。

過去はすべて自分のベスト

後悔はどこから生まれるか。

それは、自分はもっとできたという思い上がりから生まれる

後悔している人の典型的な態度はだいたいこんなものだ。

  • 「自分はやりようによってはもっとうまく立ち回ることができた」
  • 「自分の能力にとって、現在地点はふさわしい場所ではない。もっと高い場所にいたはずだ」
  • 「自分にはやむを得ない事情があった」
  • 「自分は余力を残していた」

いや、立ち回れなかったからそこにいるのであって。能力が低いから高い場所に行けなかったのであって。

やむを得ない事情が本当にやむを得ないのなら、後悔はしないはずであって。それはやむを得ないのだから。

「あ〜そうなんだ〜余力があったのなら次は大丈夫だね〜」とでも、甘やかされて生きてきたのだろうか。反吐が出る。

できたはずのこととできなかったこととの間に存在するスキマを「余力」とみなすのは、自分の能力と可能性の過大評価にすぎない。過去はすべて自分のベストなのだ。少なくとも世間はそう捉える。後悔した人がねちねちこだわっている「余力」とやらを正当に評価できるシステムはいまのところ存在しない。

原因と結果の履き違え。本当はできたはずの自分などただの幻想だ。できなかったのだから。

過去にできたことがそっくりそのまま、自分にできること。実績だけを崇拝する。そういう態度で物事にあたれば後悔などわきおこらない。

本当にとるべき態度は、

  • 「もっとうまい立ち回り方はあるかもしれないが、今はこれが私の最善であり、結果に文句はいいようがない」
  • 「私はつねに、自分の能力にふさわしい場所にいさせられる」
  • 「やむを得ない事情とやむを得なくない事情をまずは見極め、前者は捨てる。後者を考慮しないことの責任は全て自分にある」
  • 「余力などない。力は余らない。力はそっくりそのまま、現実に変換される」

のようなものではないか。