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のべつまくなし

哲学と人生

結晶の飽和

雑感

音楽でも文章でも、文化的なものは何でもそうだが、私たちが楽しめる形、感覚できる形となる前にそれは、個々の素材(概念)だった時期を経ている。

つまり、個々の概念の単なる寄せ集めでは意味がない。素材を選択し配列することで個々の総和以上の価値を持った何かにこそ、人々は惹かれる。

それを「文化的なものはみな結晶している」と表現してみよう。結晶は個々の素材に分解してみれば何の変哲もない分子だが、それらが秩序をもって規則的に並ぶことで価値(美しさや空間的効率性)が生まれる。

私たちが意味伝達においてなにか有意義なことを為したいと考えるなら、この概念群の結晶化は必要不可欠だろう。

有用さだけでは物足りない。自然本性的な美しさをどこかで織り込みたい。現にそういうものが、歴史上選ばれてきたようにみえる。

いま世界は豊富な素材で満ちている。素材には事欠かない。

しかし、素材の豊富さは必ずしも結晶の質の高さに寄与しない。現実はむしろ逆で、情報の雑多さ、過度の流動性ゆえに、不純物が入り込んだ出来損ないの結晶が量産される。

一方で、一握りの天才たちは手を抜かない。世界には純度の高い結晶の作例がうずたかく積み上がっていく。劣悪な結晶の作り手はますます肩身がせまい。人々はもちろん、より質の高い結晶に興味をそそられるからだ。

ところで、質の高い結晶を作るためにはいくつか要件がある。

  1. 質の高い素材を集めること = 判断力、知力、場数(経験)
  2. よい組み合わせ方をすること = 創造力
  3. 結晶化に適当な時間をかけること = 根気、気の長さ、"時間が解決するもの"

これらを踏まえて、今後の文化の動向を"結晶的"に考える。

飛躍的に進歩したAIは1を満たし、成熟したネット社会の集合知的振る舞いは2を満たすと思われる。

すると、質の高い結晶を少数の天才だけに待望することはなくなるかもしれない。少なくとも(例えば音楽や文芸といった)既存の枠組みにおいては。

その場合、幅広い人々がその才能によらず質の高い結晶を次々と生み出せるものだから、もうそれらは質の高さを保持できない。結晶は値崩れを起こす。

現代が情報(素材)の大量消費時代なら、次代は結晶の大量消費時代だろうか。

そんな世界において「創造性」とは現在のそれよりひとつ次元を高くした概念を指す。天才のハードルはますます高くなる。現代における天才が未来においては凡才ということもざらに起こるだろう。

唯一付け入る隙は要件1にあると考える。

AIが到底質が高いと判断し得ない素材に可能性を見出し、それを結晶化する。

例えば倫理学や哲学など、価値基準を機械言語に変換しづらい学問体系における結晶の価値の下落は比較的緩やかだろう。

やる気は出るもの

雑感 ライフハック

「やる気を出す方法」なんて言葉で溢れている昨今。

もういい加減うるさいよ。もう聞き飽きた。私はなんとしても「やる気は出すもの」という価値観を破壊したくなってくる。

そう。「やる気は出すもの」とはあくまでひとつの価値観、信仰であって、真実ではない。

真実でない考えがなぜこんなにもてはやされるのか。それは「やる気は出すもの」としておいた方が金になるからだ。

人々はやる気を出したいがために栄養学の入門書を読む。エクササイズに励むために上等なウェアを買う。脳科学を謳った書物にやすやすと手が伸びる。それらはもっともらしい。当然だ。マーケターらはもっともらしさの演出のプロであり、その巧拙が損益を分岐する。

やる気ビジネスは今後も、人々のうわっつら浅いところだけを取り上げては、また新しい金脈へと移行していくだろう。核心には決して触れないままで。奴らはふんだくれる内にふんだくる魂胆だ。

だが奴らの命日は近い。本質に背いたビジネスは絶対に生き残らない。淘汰の原理は正しくなかった試しがない。

まあしかし、私はビジネスを貶すつもりは毛頭ない。たちの悪さはむしろ、そんなビジネスに金を払う無知さの方にある

真新しさは無知な人々にとって上質なもっともらしさである。彼らは未知のものにとんでもない価値が秘められていると思いたがる。なぜなら、そうであるなら彼らのしょうもない人生にも説明がつくからである。彼らはおめでたい。彼らは既知の延長線上にこそ価値があることを知らない。根気がないから未知に甘えるしかない。

科学という名の権威にも人々は弱い。科学的な裏付けがあるからといって、それが自分にとっての本質にそぐわないと何の意味もないことを人々は見落としがちだ。

SNSによる口コミ効果、ニュース記事のネットによる拡散力も今日では影響が大きい。知人や有名人や知識人が効果を絶賛する方法論。あたかもそこに自分の人生の救済があるかにみえる。数の効果がそう見せているだけなのに。

つまり、資本主義経済下、情報社会ではますます、私たちの感じるもっともらしさが本質に根ざしている可能性は低い

無から生まれた鶏

では、私がやたら繰り返す本質とはなにか。

私は「やる気は出るもの」と信じている。

ただし、最初から自然にとはいかない。意識的な努力はある程度必要だが、ある段階に至ったらあとはもう「やる気は出る」。 その点で「やる気は出すもの」信仰とは一線を画す。

その核となる考え方は

  1. 真の動機は自分の内側にあり、あなたはそれを熟知しているはずだ。特に、幼少期の体験をあたるといい。決してそれを誰かに教えてもらうことはできない
  2. 好みのものにやる気を出すのではない。やる気が出るものを好むのだ

私たちは興味があるものを深く知ろうとする。そして、深く知ったものには興味が維持される。

この深い知強い興味はいわば鶏と卵みたいなもので、お互いがお互いを生みだす。

どちらが先に生まれたかなどはこの際どうでもいい。重要なのは、元を辿れば、最初の"卵"は無から生まれた点である。あるいは、最初の"鶏"は無から生まれた点である。深い知と強い興味のサイクルの始点は無条件的だ。

この無条件性は才能と呼ばれているものであり、私がやる気の根源とみるものである。

物心ついて間もない4歳の少年は星空に魅入られ、天文学を志した。別の少女はピアノを弾き始めた。また別の子は絵を描き始めた。そこに理由や因果関係などなく、あるのは純然たる才能だ。

才能に耳を澄ませることが、やる気が出ることに直結する。俗っぽくてあまり良い言葉ではないが、向き不向きを受け入れるということだ。

やる気が出ることが向いている証なのであって、やる気を出そうとした時点で既に向いていない可能性が高い。そして、向いているものの中に人間の求めるものはある。

「やる気は出すもの」信仰は、いわば自分の本来の傾向性・適正への反逆である。

やる気の真贋

そうではなく、やはりやる気は出すものだと。自分本来の傾向性に牙を向いてでも手にしたい価値がそこにはあるのだと、そういう人も少なくないだろう。あるいは、やる気を出す必要性に迫られた人。

そんな価値観を私は断固否定する。そんな現在の延長線上に望む未来などない。断言してもいい。

自分本来の傾向性こそが幸福感など人間の求めるものの源泉であり、それを軽視することは自分の首を絞めるようなものだ。

"無から生まれた鶏"に卵を産んでもらえるのに、"無から鶏を生もうとする"必要がどこにあるというのだ。

興味がないことを知る必要はない。知らないことに興味を持つ必要はない。無理にそうしてみたところで、そこに関するやる気は決して持続しない。

やる気は傾向性のサインである。自分の傾向性を最大限認識し尊重できた時、やる気は出る。逆に言えば、それができない限りは偽物のやる気しか出ない。

偽物のやる気と本物のやる気の区別の仕方を最後にみておこう。

  • 偽物のやる気はそれを得るために出費を伴う。本物のやる気はむしろ自分に利益をもたらす。
  • 偽物のやる気は出すもの。本物のやる気は出るもの。
  • 偽物のやる気は決して持続しない。本物のやる気は持続し、場合によっては無尽蔵に増えてゆく。
  • 偽物のやる気は他者によって容易く揺らぐ。本物のやる気はあらゆる他者によっても影響を受けない。
  • 偽物のやる気は未知と関わり深い。本物のやる気は既知と関わり深い。本物のやる気を私たちは既に知っている。
  • したがって、偽物のやる気は臆病さと、本物のやる気は勇気と密接な関係にある。
  • 偽物のやる気は悪い意味で理屈っぽい。本物のやる気は非言語的、直観的。
  • 偽物のやる気はどこかしら醜くぎこちない。しばしば苦痛を伴う。本物のやる気は美しくなめらかで、喜びに満ちている。

わかってないのはいつも自分の方

雑感

人間はガラクタじゃない。一見どんな好ましくない性質を備えた人間にも、道理があり心情があり、一貫性があり背景があり、故郷があり親があり、本質があり信条がある。

それら真実を根も葉もない想像でうやむやにし、都合の良いレッテルで分類し、価値を好き勝手歪めるのはいつも自分の方だ。

他者はつねにただいるだけで、自分に一切の意味を押し付けてこない。どんな解釈も強要してこない。

他者を解釈し意味を付与できるのは自分しかいない。したがって、意味の取り違いも自分の中にしか生まれえない。

あらゆる他者は整合性を備えている。なぜなら生きることは整合的だから。

ある他者が整合性を備えていないように見えるのは、自分の解釈に整合性がないというだけ

性格や容姿、言動といったわかりやすい外観だけを用いて人を判断しようとしても無理がある。それらは互いにたやすく矛盾する。もっと根深い部分に目を向ける必要がある = 止揚の考え。

もちろん、他者の整合的解釈が成功したところで、自分が真実を見ていることの保証にはならない。整合性を虚構することもできる。

しかし少なくとも、整合性のある(とみなせる)他者に対しては、尊敬の気持ちが生まれてくる。

これこそが大切であって目的。整合的解釈はそのための手段。だって、他者そのものと自分の解釈が紛れもなく一致していることを確かめる術がない。

他者が自分に意味を押し付けなかったように、自分も他者に意味を押し付けることはしない。

 

 

 

 

なぜこんなことを書いたのかについて。

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相手に整合性さえ見出せたならもう許容する以外ない。争う理由がない。ゆえに、争うのは相手の整合性を汲み取れていないから。

= 人々の争いの種は、相手に整合性を見出せないことではないか。

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根本には、私のそういう考えがあった。

本来ある整合性が見えないから争う。そんな悲しい、馬鹿げたこともそうそうない。

あるいは人は、整合性を認めた上で、その整合性の種類のいかんによって、争いの元になるような感情を抱く。

こうなると別の問題だ。これは私とは全く感じ方が違うことの現れだから、私の理解の範疇ではない。私は、あらゆる種類の整合性は美しく尊敬に値するものであると考えている。

 

 

 

 

 

最後に。

人間って本当に整合性あるの?という点について。

それについては、自分がそう思えばあるというのが落とし所。

神の創造性とか宇宙の意志とか、そんなものを肯定する気持ちもさらさらないけれど、かといってそういう類の発想を完全に否定すると、なんだかギクシャクする。

「人間ってすごいなあ〜」という畏怖をどこかしらで無条件に持ち込むと、なんだかとても安らかなのである。

過去はすべて自分のベスト

雑感

後悔はどこから生まれるか。

それは、自分はもっとできたという思い上がりから生まれる

後悔している人の典型的な態度はだいたいこんなものだ。

  • 「自分はやりようによってはもっとうまく立ち回ることができた」
  • 「自分の能力にとって、現在地点はふさわしい場所ではない。もっと高い場所にいたはずだ」
  • 「自分にはやむを得ない事情があった」
  • 「自分は余力を残していた」

いや、立ち回れなかったからそこにいるのであって。能力が低いから高い場所に行けなかったのであって。

やむを得ない事情が本当にやむを得ないのなら、後悔はしないはずであって。それはやむを得ないのだから。

「あ〜そうなんだ〜余力があったのなら次は大丈夫だね〜」とでも、甘やかされて生きてきたのだろうか。反吐が出る。

できたはずのこととできなかったこととの間に存在するスキマを「余力」とみなすのは、自分の能力と可能性の過大評価にすぎない。過去はすべて自分のベストなのだ。少なくとも世間はそう捉える。後悔した人がねちねちこだわっている「余力」とやらを正当に評価できるシステムはいまのところ存在しない。

原因と結果の履き違え。本当はできたはずの自分などただの幻想だ。できなかったのだから。

過去にできたことがそっくりそのまま、自分にできること。実績だけを崇拝する。そういう態度で物事にあたれば後悔などわきおこらない。

本当にとるべき態度は、

  • 「もっとうまい立ち回り方はあるかもしれないが、今はこれが私の最善であり、結果に文句はいいようがない」
  • 「私はつねに、自分の能力にふさわしい場所にいさせられる」
  • 「やむを得ない事情とやむを得なくない事情をまずは見極め、前者は捨てる。後者を考慮しないことの責任は全て自分にある」
  • 「余力などない。力は余らない。力はそっくりそのまま、現実に変換される」

のようなものではないか。

直観的に合わない人とは絶対に合わない理由

雑感

「合わない」ことの背景

私たちがある他者を自分と「合う」と思うとき、私たちはそこに自分の求めるものが得られる構造を見ている。

私たちがある他者を自分と「合わない」と思うとき、私たちはそこに自分の優位性が危ぶまれる構造を見ている。

要するに私たちは自分にとって優位な構造に身を置きたがるがために「合う」「合わない」を感じ取る。

高所得者は口を揃えて金稼ぎの善性を主張するが、低所得者は格差拡大だと非難する。女性が雇用機会の均等を訴えれば、立場を失うのを恐れて男性が押し込める。理系は数字の客観性を、文系は豊かな主観性を武器にする。いずれも前者には後者が、後者には前者が「合わない」存在となっている。

本質的にはそういうこととして、実践的にはどうだろう。私たちは日常的に、他者と自分が「合う」か「合わない」かをどのように判断しているのだろうか。

好みは合う方がいいか。合わない方がいいか。

主義思想が合っていればそれでいいのか。

能力が近ければいいのか。全く異なればいいのか。

性格はどうか。全く異なるのととても似ているのとではどちらがいいのか。

そういったことがらは全て表面的なもので、私たちはもっと根源的で高次な判断基準を用いていると私は感じる。

なぜなら、認識に伴う快不快はたまたまだから。「たまたま今日そうだった」ことを否定する根拠がどこにもない。人間は心変わりをするし、機嫌もコロコロ変わる。知識を得れば考え方も変わる。好みが合うことが不快になることもあるし、好みが合わないことが快感情につながることもある。それは相手にも自分にも言えること。

大抵の主義思想や能力や性格なんて所詮、そのときの機嫌やタイミングさえ良ければ受け入れられてしまう。

もっと直観的で、もっと硬直的で、もっと大きなうねり・流れ、「合わない人とは何をどうしても合わない」という遺伝子レベル、魂レベルでの食い違いは存在すると考える。

すなわち、後天的に変えようのない判断基準は存在すると思う。生まれてから死ぬまで一瞬の例外なく、どんなに機嫌が良かろうと「合わない」他者はいるということだ。

それだけでなく、人間はその先天的な判断基準を第六感的に他者のそれと照らし合わせ、食い違うことを察知した結果「合わない」という判断を下すのではないか、というのが私見だ。

初対面での「合わない」は優れている

私たちは初対面の他者が自分と「合わない」ことを予感できる。

性格や思想、能力などのノイズが最も少ないのは初対面時点だから、この時点での「合わない」が一番信頼できるとすら言えるかもしれない。

人類が生まれてから何百万年も経っており、私たちは進化の歴史の最先端にいる。異種間の淘汰も同種間の淘汰も数え切れないほどくぐり抜けてきたはずだ。

その私たち人間が直観的に「合わない」と感じ、不快感を伴う。これはもう本当に「合っていない」のであり、「合わない」ことによるデメリットを回避するための警報として、不快感を生じさせている。人間は進化の過程で、そういうシステムの導入を余儀なくされたのだ。

数百万年経て洗練させてきたシステムに小手先だけの懐疑を向けるよりも、その圧倒的な品質保証を信頼する。それは、自分の中の奥底にある先天的な判断基準の発しているサインを敏感に、素直に感じ取り従おうとすることだ。

そういうサインは、能力や性格を判断基準として考慮する段階にはもはや感じ取れない。後天的に得たたまたまの判断基準というノイズがうるさ過ぎるからだ。

「合わない」ことの品質保証

もちろん、「合わない」という感覚が、品質保証の保証するところである保証はどこにもない。どこにもないが、歴史は解釈の仕方によってはその保証となる。

「合わない」という感性はなにも現代人特有のものではない。「合わない」国同士は戦争をした。「合わない」人種は差別され、「合わない」宗教は弾圧された。上流階級の人間は、「合わない」人間だからこそ奴隷から容赦無く搾取し、ヒエラルキーの最下層に留まらせた。

「合う」人間たちは結託して繁栄を謳歌し、「合わない」人間たちはその繁栄の影で生きてきた。

「合う」と嬉しいし、「合わない」とロクなことがないのである。

私たちの魂はおそらく、この摂理を嫌という程痛感してきたために、「合わない」ことに不快感を抱く。

魂というスピリチュアルな響きが受付けなければ、遺伝子、または教育の系譜と置き換えてもいい。先祖代々、親は子に、「合う」ことに重きを置くことのメリットを脈々と教授してきた。その価値観の集積先が私たち一人一人なのである。

弱者に社会は「合わない」

社会を動かしているのは、「合う」人達との繁栄を謳歌し優位性を築きたがる個人の本能である。このとき、優位性を築く能力の高さが強者と弱者とを分け隔てる。すなわち、優位性を手にした者が強者、そうでない者が弱者である。

社会は常に最も強者たる人物の判断基準を採用するから、この人物だけが先天的な判断基準を社会に適用することができる。彼を最強者としよう。

今後、社会における強者とは、最強者の先天的な判断基準に従うことができ、かつ優位性を築く能力の高い者となっていく。つまり、強者を定義するのは最強者である。

強者が定義できれば、強者でない者が弱者となり、弱者にはいくつかパターンがあることがわかる。

  1. 優位性を築く能力は低いが、先天的な判断基準は最強者のそれと近い
  2. 優位性を築く能力が低いうえに、先天的な判断基準が最強者のそれと衝突している
  3. 優位性を築く能力は高いが、先天的な判断基準が最強者のそれと衝突しているために、社会での台頭を望まない

優位性を築く能力はある程度後天的に伸ばせるから、弱者についても鍵を握るのはやはり先天的な判断基準となりそうだ。

1の弱者は優位性を築く能力を磨けば強者になりうる。彼らは比較的社会に合っているが、少なくとも現段階では「合わない」。

救いようがないのは2の弱者で、努力して優位性を築きあげたところでその優位性は本人の先天的な判断基準にそぐうものではない。2の弱者は本当の意味で社会に「合わない」。

3の弱者は、優位性なんてどうでもいいという判断基準によって社会に対して優位性を得ている(逆説的だが)。彼らは自身を弱者どころか強者であるとみなしていることもある。その欺瞞的な価値観の是非はともかくとして、彼らにも社会は「合わない」。そもそも彼らは社会に「合おう」としていない。

したがって、社会が「合わない」のなら弱者であるかどうかは別として、弱者には「合わない」のが社会である。

優位性の確保できそうな性質 = 重視する判断基準

最後に、先天的な判断基準とはとどのつまりは何なのかを明らかにしたい。

先天的な判断基準と先天的な能力とは完全に対応している。人は、先天的な能力を元にした判断基準を生涯変えない。

先天的な能力が個々で異なることが、「合わない」他者が存在することの原因である。

一般に人は自分の秀でている能力に優位性の根拠を持ちたがる。

生まれつき運動が苦手だが勉強が得意な子は、勉強こそが人としての価値を決めると信じる。逆に運動だけが得意な子は、勉強なんてできたところで価値はないと運動に励む。あるいはもう1人の多才な子は、勉強も運動も両立してこそ人間だと働きかける。いずれの子も自分が上位となる構造の正しさを認めさせ、結果上位に位置したいのである。

では、先天的な能力を元にした判断基準はなぜ生涯を一貫するか。

それは、先天性に起因する。簡潔に言えば、「どうしようもないこと = 先天的な能力」が優位性として捉えられる世界では、その優位性は絶対に覆らないからである。そして私たちは本能的に、絶対に覆らない優位性を欲するのだ。

みかんにりんごの味は再現できない。りんご好きはみかんでは満足しない。

全く同じ栄養を与えられ、全く同じ土壌で育ち、全く同じ日照条件であろうが、そんなことは関係ない。変えようのない種から得る果実の甘さもまた変えようがない。

「この甘さこそが至高だ」と触れ回りたいのが生物としての本能だ。

しかしそれにあたり障害がある。他者の種の異なる果実の甘さは再現しようがない。みかんの甘さが大衆を虜にしている世界ではりんごの甘さは見向きもされない。

私たち人類はヒトという種で共通してはいるが、本質はりんごとみかんに変わりはない。互いに異なる果実の種を割り当てられ、その果実としてしか人生を送ることができない。

地球とは果物畑のようなもので、ある時には酸っぱい果実が流行る。またある時には甘い果実が流行る。

りんごは「甘酸っぱさこそが果実の美味しさそのものだ」と信じるほかない。これはとある生徒が「文武両道こそが人生の本質だ」と信じることに対応している。

りんごはみかんを「合わない」と感じる。なぜならそこに、みかんが人気を博する構造において自分に及ぶ危険を見ているからだ。これは、人種差別とよく対応している。

運命的な「合わなさ」を優先する

先天的な能力と先天的な判断基準が対応しているから、後天的な能力と後天的な判断基準もまた対応している。

ここから言えることは、後天的な努力によりどんな高い能力、深い洞察、善良な性格を得たところで、合わない人とは生涯「合わない」。なぜなら、合わないかどうかを深いところで決定しているのは、先天的な判断基準の方なのだから。

すなわち、「合わない」ことは人と人との間に荒涼と存在する、生涯埋めようのない隙間なのだ。

私たちは生まれるやいなや、生涯変わることのない"合わない人リスト"を渡され、その気になればいつでもそれを参照できる。ただ素直に、直観的になればいい。

一番良くないのは、「合う」ための歩み寄り、「合う」ための徒労、「合う」ための妥協、そんなもので満ちたくだらない関係性を愚直に維持することだ。

もっと人々は「合わない」人を冷遇し、その分「合う」人を優遇すればいい。「合わない」ことを前提とした関係性がお互い最も消耗しづらいどころか、最良といっても過言ではない。