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のべつまくなし

哲学と人生

理想主義者への施術について

「理想は叶うもの」と思い上がる能力は、歳を重ねるごとに衰えていく。「理想は叶わないもの」という判例が増えるにつれて。

自分という存在をきらびやかに飾り立てていた空想、夢想、理想、そんなものが次々に剥がれ落ちて、みすぼらしい矮小な自分をいつかは直視せざるを得なくなる。

ひとつの理想が朽ちた時、若さは別の新たな理想を見つけ次第身にまとう。自分自身の将来に可能性を見出しては今日の糧とすることの繰り返し。若さとは可能性への感受性の高さだ。

一通り理想の物色を終えた人間は老いている。視界は狭まり、気概は鎮まり、夢を掴む握力は脆弱そのもの。彼は疲れ果てている。自分という存在に関してあらゆる可能性が潰えていることを検証する為だけの生を振り返り、無力感に苛まれ、己の非才を恨みながらやり場のない負の感情を余生に抱く。

これは極度の夢想家の悲惨な末路の一例に過ぎない。理想と言う名の虚飾のもっともらしさ、心地よさに紛らわされて、実践的な生きる力を地道に養おうとしないことの弊害は人生後期にのみ現れる。あらかじめそれを予期することは役に立つ。

現代日本では、理想に酔うことは特に難しくない。ちょっと検索をかければすぐに「自分にも叶えられそうな非現実」に行き着けるし、その実現可能性をお膳立てるような書籍やビジネスも溢れている。しかし実現可能性を容易に認識できることと、実現が容易なこととは全く関係がない。ところが人間は概して、出来そうなことはやらずにはいられない。

そういう理由で夢想家は情報社会において、より「実現可能性の薄い理想」を抱きやすいと言える。この傾向性は情報の流動性に比例するから、今後さらに高まると思われる。

加えて、このネット社会。ネットを介して他者評価にさらされ、経済的成功者の半生やsnsアカウントに容易にアクセスできる(親近性が高まる)がために、幸福の参照点が高くなる。

するとどうなるか。まず、みすぼらしい自分を直視したくないが為の理想主義に拍車がかかる。するとますます、現在の自分のみすぼらしさを拭い去るための努力を重ねることが難しくなる。現実と理想のあまりにひどい乖離は、動機付けに負の作用をするからだ。慰めに、理想を強化する。より色鮮やかに、より華やかに理想を飾り立てている間には、自分が世の成功者達と対等以上になれている気がしてくる。

この病状は、理想を育てることの方に力が偏り過ぎている悪い兆候であると言わざるを得ない。

過度の理想主義という病巣にメスを入れるのは、①確かな判断力、②他者からの客観的なフィードバック、そして③加齢による達観である。

このメスに切り裂かれるのは堪らなく苦しい。自分の半身とも言える理想への否定は自らへの否定に等しいが、時が経てば必ず③による「手術」を経ることになる。

この手術は「見えざる手」によって行われる。つまり③は人間の普遍的傾向への屈服であり、神による理想主義への戒めである。

この施術を受ける頃には、もう何もかもが遅い。

この施術は、理想主義という病巣の横にある、可能性への感受性という器官をも切除してしまう。そうなったら後はもう、自分という存在に閉ざされるだけの退屈な余生、死を待つだけの生きる屍といっても過言ではない状態は免れない。

メスは自分で握ることだ。そうすれば可能性への感受性は残したままで、無茶な理想主義だけを根治できる。

 

 

 

感情は一夜の夢

感情と論理は両立困難

生きていく上で何度も行う意思決定。もしその意思決定が本来得られたはずの一貫性や論理性に欠け不完全なものだとしたら、それは感情のせいといってほぼ差し支えない。

このことは脳科学的に証明されつつある。論理的思考と感情の発露とは脳の担当部位が異なり、なおかつそれらの部位は活動をゆずりあう傾向にある。つまり感情的なうちは論理的思考をするのは難しいということだ。

「寝て起きたら消えるもの」に判断を委ねない

ところで、感情とはなんだろうか。ここで私が推すのは「寝て起きたら消えているもの」という、哲学者カントによる感情(情動)の定義だ。

この定義にも、多少の脳科学的な裏付けを見いだせるかもしれない。例えば怒りというのは、脳の扁桃核という部位が活動優位になり脳をジャックした結果とみなすことができる。そしてこの"扁桃核によるジャック"は時間が経てば収まる一時的な現象だ。

怒りにとらわれて論理的な意思決定の難しい状態にある私たちに対して、睡眠は「ひとまず寝て落ち着こうよ」という保留の役割を果たす。まとまった時間 意識を「放棄」することで、脳科学的な平静状態が訪れ、感情が消えるのを待つのだ。カントはこのことを経験的に察知したのだろう。

(カントの定義を採用すれば)目が覚めた時点で"感情"は消えていることになる。そこで落ち着いて論理的に意思決定をすればいい。

補足が2つ。

  1. もちろん、平静状態で論理的になれるかどうかは個人による。しかしそれでも、感情の影響を最小限に抑えられるという点では同じように睡眠は有効だ。
  2. もし「当該の気持ち」が寝て起きても残っているようなら、それはもはや感情を超越した「その人特有の傾向性」のようなものだろう。必ずしもそれは論理的ではないが、意思決定に反映させるに足る十分な価値を持っている要素と考えて良いのではないか。

まとめ

  • 感情的になったら寝ること
  • 寝て起きて残っているものは論理性と、自分特有の傾向性。後悔しない意思決定をするには絶好の条件

心の重荷について

実存主義⇆本質主義

「心の重荷をおろす」という表現がある。

「世界にあるのはただただ解釈であって、現象があるわけではない」という実存主義の立場につくなら、「重荷を抱えている人」は世界に重荷を背負わされているのではなく、勝手に世界に「自分が重荷を背負わざるをえないような意味と構造」を見出しているに過ぎない。この場合、重荷はおろせるのではなく、重荷として把握していた何かを重荷として把握しなくなるだけであって、重荷と自己は必ずしも切り離されるわけではない。

一方、「世界にあるのは解釈ではなく、あくまで客観的現象だ」という本質主義から世界を見るなら、重荷という概念と心という概念は別個に存在する。この場合、「心の重荷をおろす」と言ったら、重荷と自己は切り離されていなければならない。

つまり、さしあたってわれわれには、「心の重荷とは被害妄想的な幻想である。"重荷をおろす"には問題の根本的解決を必ずしも必要としない」という立場と、「心の重荷とは実際的な問題である。"重荷をおろす"には問題の根本的な解決を必要とする」という立場とが選択候補として与えられている。

このことから、心の重荷とのつきあい方のようなものが見えてくる。

心の重荷がある人は実存主義、ない人は本質主義をとるといい。

「とるといい」というのは、人生を懸けてその主義を貫き通せ、という強要では決してなく、心の重荷を解釈するに当たっての思考様式の選択くらいの、軽い気持ちでいい(と私は考える)。

重荷があるなら実存主義を

まず、心の重荷がある人がとるべき実存主義について。心の重荷について、こんなことを自分自身に尋ねてみるとよい。

「10年前の私は同じことを重荷と感じただろうか」「10年後の私はどうか」「あるいは死ぬ間際、同じことを重荷と言っていられる場合だろうか」もしいずれかの時点で「重荷を重荷とみなさない自分」が見いだせたらしめたもので、その時点の自分と現在の自分との差異に、"重荷をおろす"ための糸口がある。

しかし、もしあらゆる時点で重荷は重荷でしかない場合、他者にその重荷を背負わせてみるといい。歴史上の人物、肉親、物語の主人公、誰でもいい。これも前述と同様、自己との差異 = 解釈の仕方の相違 を見いだせたなら、そこに問題解決のヒントが隠されている場合が多い。それを徹底的に洗い、まねる。

それでも重荷は重荷でしかない、という人は多いと思う。あるいは、重荷は解釈次第でどうにでもなると理解したとはいえ、その解釈の凝り固まりかたが尋常ではなく、もはや自分ではどうすることもできない。 そんな状況に陥ってしまっていると。

そういう人は、解釈というものがいかに儚く、いかに脆く、いかに局所的で恣意的なのかを一度徹底的に学ぶことを薦める。哲学を学ぶのもいいし、単純におそらくは人類の思想の多様性に対する視野の広さが不足していると思われる。

(実存主義的に)重荷が重荷でしかないのは、「重荷を重荷と思わない自分」のイメージが「重荷を重荷と思う自分」より曖昧でぼやけているからだ。人は臨場感の欠ける想像は決して実現できない。

重荷がないなら本質主義を

重荷がない状態(健全な状態)を実存主義的に解釈するとどうなるか。「重荷がないのはそう私が感じていないからで、実際には、他人にとっての重荷 = 問題を抱えてしまっているのではないか」というような懐疑心が湧き出てきてしまう。

その点本質主義に立てば、「自分にとって重荷でないなら、それはもう重荷ではない」という清潔な安心感に浸ることができる。

自己中過ぎないか?

主義を自由に行き来するこの柔軟性はともすれば、単なる自己中心的な性格だと多くは言うだろう。

逆説的だが、気ままに本質主義を採用するという発想は実存主義的なのだ。それなのでこの記事はどちらかと言うと実存主義寄りだろう。

決して客観的で本質的な解決方法を求めていない人、とにかく重荷をおろせればいい人、すなわち孤独な人に読んでもらうとクリティカルヒットするんじゃなかろうか。

孤独な人間にとって、本質主義など無用の長物だからだ。本質主義者が追い求める「客観的な本質性」を尊重した所で、その価値を共有する相手がいない。

しかし、現実世界では時に、孤独を手放さねばならない。その際は臨時に本質主義者になればいい。社会というものはどうしても本質主義的になる。政治でもビジネスでも、客観的に承認されないものは実現されにくいからだ。

ゆえに社会では、自分がおろしたところで重荷は重荷のままで、誰かが代わりに背負う必要性が生じる。自分がおろした重荷の処理に追われている人間に「いや、その重荷を重荷と感じるかどうかはアナタ次第だよ」などとのたもうものなら、社会不適合者の烙印を押されたところで致し方なしと言える。

改めて使い分け方を提示する

まとめよう。

心の重荷に対する態度としては、そのあるなしに関わらず、孤独を愛するなら実存主義を、社会を愛するなら本質主義をとるといいかもしれない。

孤独である限り自分の認識こそが真理なのだから、客観性に重きを置く動機がない。重荷は自分にとって重荷でなくなりさえすればいい。

社会的にはそれはまずい。社会は私たちが重荷をおろすことに対価を求める。誰かがおろした重荷は誰かが背負わねばならないと社会では考えられているからだ。

積極的消極性1

批判的に物事を見ることは、生産性や効率性の向上のためには欠かせない反面、批判主義一辺倒だとその批判の価値(正当性)が危ぶまれる。それはひとえに、批判することを前提にして意見を述べる人種の存在のためだ。

かといって物事の良い側面だけを見る「ご機嫌取り」のような態度もいただけない。表面的な部分の印象だけにとらわれて洞察を深めなかった結果、合理的な選択をしたり、改善の余地を埋めたりする機会を逸するかもしれない。

ある一定の主義に傾倒することは、その主義の反対に位置する何かを捨てている( = 極性には棄却が伴う)。かつ、その捨てている何かとは当たり前のように、他の誰かにとっての最優先事項でありうる。つまり、あるひとつの主義を取ることは、世界のだれかとの対立を選び取ることを実質的に意味する。

「どんな主義もとらない」という立場を突き詰めた結果生まれた主義ですら、極性を示してしまう。どんな主義もとらないという考えにおいて積極的(極端)だからだ。結局対立は避けられない。

あらゆる観点において極性を示さない立場、すなわち、あらゆる主義に属さない立場というものがあるとすれば、それは新たな主義と呼ばれるか、そうでなければそこにこそ私たちの求める真理が秘められていると感じる。

もっとも、真理は別に秘められているわけでも何でもなく、ただそこにあるのだろうが。秘められていると私たちが感じてしまうのは、ただ単に認識するだけの知的能力水準に達していないというだけだ。

試しにWikiの主義一覧ページに飛んでみる。このページですらきっと世界の思想のごく一部を切り取った形に過ぎず、途方もない思想の多様性をもれなく汲み取った人物などいまだかつて存在しただろうか。仮に居たとして、その人物は世界に何を見て、自身はどんな主義を取るのか。

全知全能の神がいるとすれば、彼にはその究極の主義とでもいえるものが(あるとすれば)見えている。更に言えば、直観的に、神はその究極の主義を実践している。全知全能性と究極性は切っても切り離せない関係にあるからだ。

おこがましくも人間が神に近づこうとするなら、まずはあらゆる主義を超越しなければならない。超越するためには知り尽くさねばならない。知り尽くすためには、根本的な知的様式を確立しないことには始まらない。

しかしここで問題がある。『グローバル化と知的様式』によると、

私たちが有する認識論あるいは方法論は、それを作り出す学問構造と一致し、その構造は私たちが組み込まれている社会構造全体を反映している。(258p)

私たちは世界一般に通用する認識論が存在すると思いがちだが、そうではない。日本には日本独自の、アメリカにはアメリカ独自の知的様式(=認識論や方法論)があり、私たちの物事の把握の仕方は、もれなくその特色を示す。

これは、「自分の意志で、世界から独立して得た、自分本来のものと信じているどんな認識論も、出身国の社会構造によって多かれ少なかれ左右された経緯を経ている」ことを意味している。

例えば日本出身の私が世界中のあらゆる主義を認識した所で、それは日本流の認識論を用いて主義に手を加えた代物であり、混じりっけなしの本質そのものとはなかなかいかない。そんな認識にどれほどの価値があるのだろうか。

この点について『グローバル化と知的様式』では、

この選択は、誰か他の人が私たちのために行うのではなく、私たち自身が行わなけばならないのだということを意識すればするほど、私たちは行動において自由を得ることになる。

と述べられている。ここで究極的な主義の可能性が見えてくる。

あらゆる主義を知り尽くし、また自分の中に本来的にある主義を見極めることで到達する、「いついかなる時にもあらゆる主義を自由自在に取りうる」主義に、極性は見いだせるだろうか。

つづく

 

 

 

 

誰も傷つけまいと欲張ると誰かを傷つける

他人をある程度傷つけ、悲しませ、苦しませることなしには、その人と真摯につき合うことはできないと思っている。ということは、自分自身も他人から相当程度苦しめられても、傷つけられても、悲しまされてもしかたないということだ。
- 中島義道『不幸論』 -

自己犠牲の精神は「美徳」と讃えられるべきものだが、それは確かな成果あってのこと。「自己犠牲的な自分に執着する」のは本末転倒であり、わざわざ犠牲を払っておきながら望む結果も遠ざかるという最悪のパターンにもなりうる。

たとえば、私たちはときに「他人が傷つくくらいなら自分が傷つこう」という自己犠牲的な態度に走るが、その裏にはいくつかの異なる心境が隠れている。

  1. 他人を傷つける自分でありたくない = 傷つける苦しみが大きい
  2. 傷ついた他人を見るのが後ろめたい = 傷つかれる苦しみが大きい
  3. 自分は傷ついても気丈に振る舞える = 傷つく苦しみが小さい
  4. 傷つくより傷つける方が精神的負担は小さいと思う = 傷つけられる苦しみが小さい

当然、いずれも苦しみを減らしたいという目的では共通している。しかしこれらの態度いずれにも重大な見落としがある。

自己犠牲的な人は、

  1. どちらか一方だけは傷つかねばならず、そうでない方が自動的に傷つける側になる
  2. 苦しみの総量は一定であり、自分の苦しみを増やせば相手の苦しみを減らせる

という誤った前提を知らず知らずに置いていることが多い。 「手軽に美徳が得られる」という自己犠牲の放つ魔力に目がくらんで、前提の存在に気付けないのだ。これは、自分以外の傷というものはえてして得体が知れないのに反し、自分の傷というものはそのおおよその状態を把握しておけることがもたらす安心感が大きいのだろう。

これらの前提はどのように誤っているのだろうか。

世の中には、自己犠牲的な人を見ているだけで傷つき苦しむ という心優しい人間もいる。そういう人に対する自己犠牲的な振る舞いはむしろ結果にマイナスの影響をもたらす。相手のためにやっていることが相手の苦しみになっている状態。

この場合、こちらが自己犠牲的になればなるほど、すなわち傷を許容すればするほど、相手もそれだけ傷を増やしていく。そして、相手が傷ついていると察知したこちらは、「更なる自己犠牲の必要性」に迫られ、更に多くの傷を許容する。負のスパイラルだ。

もしくは、自己犠牲的な人特有の「相手を傷つけたくないがゆえの当たり障りのない受け答え」も周囲を結果的に傷つけることがある。いずれにせよ、自分の自己犠牲性と相手の傷の多さが負の循環に落ち込んでいく点は同じだ。

そのような悪循環に陥ってしまう原因はといえばやはり、自己犠牲によって得られる成果への興味を失い、事実の観察を怠り、自己犠牲そのものの方に筋違いの価値を見出してしまったことにあるのだ。

相手を絶対に傷つけまいとする信念も、ある一線を超えると、いつしか相手を傷つけない自分の方、信念を貫き通す自分の方が大切になってくる。そんな自分をちゃんと否定して相手と向き合うことが、真摯に付き合うということではないだろうか。