遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

なぜ「異質な人間」は嫌悪されるのか?

異質な人間への嫌悪を、手間=コストの観点から考えてみる。

最もシミュレートが困難であるものの1つが人の心だ。ただでさえ他者の心というのは一筋縄ではいかない。それが自分とは異質な他者の心であれば尚更だ。

私たちが他者の心の異質さを垣間見たとき、膨大なシミュレーションコストが予感される。そしてその膨大なコストを負担する正当性、すなわち覚悟あるいは意義あるいは良心、が欠如しているとき、その予感は嫌悪感や億劫さへと変わる。

この嫌悪感や億劫さが、円滑な関係を築いていくのにネックになっていくことは言うまでもない。

心のシミュレーションコストの計算は意識に表面化しないだけで、無意識下で目まぐるしく行われているものと思われる。(もちろん"コストの計算"というのは比喩的であって、嫌悪感の根源となるような心理作用が数学的に表現されるような実態を持つとは限らない。)

自分と同質な他者のなにより望ましい性質は、シミュレーションコストの少なさ、言い換えれば心の予測可能性の高さおよび心の理解の容易さ、抵抗感の少なさである。互いの言葉や態度の細やかな機微をわざわざ思考の俎上に置くまでもなく、それは互いの存在の深い領域、高い次元においてすでに了解されているために、お互いの心は、良い意味でもはや気に掛けられていない。

対して異質な他者どうしというのは、まず互いの心を考慮することにコストを割く。異質さが甚だしければそれだけ、心のシミュレートは滞る。この時点ではまだかろうじて、異質さは「解体されようとしている。」

しかしシミュレーションコストが当人の許容範囲を上回り、シミュレーションの遅滞が一線を越えたとき、ついに異質な他者の心の予測=心の理解は断念され、異質な他者の異質さは異質さとして(=「理解しがたいもの」として)確定される。

大体の場合において、その異質さにはマイナスイメージが付与される。なぜならそれは、それまで費やしてきた多大なシミュレーションコストの回収の失敗を意味しているからである。そしてなにより、心のシミュレーションにおいて「自分の有する性質や知見、経験が機能しないこと」を認めることは、平均的な人格にとって心理的負担が大きい。

異質な人間というのは存在そのものが、周囲の人間へのアンチテーゼなのである: 異質な人間は、その心の予測不可能性を介して周囲の人間に膨大なシミュレーションコストを要求し浪費することによって、周囲の人間の現在および過去の営みを(意図せずとも実質的に)否定する。この"実質的否定"に対する周囲の心理的抵抗感が、嫌悪感として表出する。

異質な人間の異質さとはしたがって、「その心のシミュレーションにおいて、周囲の人間のシミュレーション資源(みずからの性質、知見、認識)が有用でないこと」、そしてそれゆえに「周囲の人間のシミュレーションコストを容赦なく無に帰すこと」である。

また人間の同質性とは、「心のシミュレーションコストが安定的に回収される見込み」である。