井の中の蛙

井の中の蛙は'大海'において快感情を抱くことはできない。快感情を得ようと思ったらいつでもとある井戸に'もぐりこみ'引きこもる必要がある。その際蛙に引きこもっているという自覚はない。逆にいえば、引きこもりの自覚がある限りは快感情はもたらされない。

人が快感情を抱くとき起こっていることは、慣用句「井の中の蛙」のいわんとするところそのものである。これは、人がつねに井の中の蛙であるというわけではなく、人が快感情を抱く際の様子が、一時的に「井の中の蛙」であるということ。言い換えれば、人は自分の見ている世界が全体的であるとみなせる間、かつその間に限り、快感情を抱く。

ここで世界とは大雑把に言って、(主観的な)心理作用の全体くらいの意味で用いている。そこには抽象度の様々な認識はもちろん、感覚的/感情的な体験も含まれる。結局個々人にとっての世界とは、その人が考えたり知ったり感じたりしたもの、それ以上でもそれ以下でもないという事情に基づく使用。

蛙にとっての井戸は、ある1人の人にとっての世界である。蛙の生活は徹頭徹尾井戸の環境に制約されて営まれる(制約性)。また、蛙にとっては井戸こそが世界の全体であり、蛙は'井戸の内側が世界のすべてである'と信じており(全体性)、そもそも'井戸の外側という発想にたどり着かない'(無自覚性)。

制約性、全体性、無自覚性が快感情をもたらす。ここで快感情とは、生きるのに不可欠な欲求を満たした時のものから、社会貢献や自己実現、芸術的卓越や大衆の指導といった高度な行為に伴うものまで全てを含む。

『井の中の蛙大海を知らず』の意味は、広辞苑にこうある。

考えや知識が狭くて、もっと広い世界があることを知らない。世間知らずのこと、見識の狭いことにいう。

井戸という場所が制約性、「考えや知識が狭い」が全体性、「もっと広い世界があることを知らない」が無自覚性に対応している。

狭いという言葉の否定的ニュアンスはここでは汲み取られるべきではない。というのも、人がその心理作用をある範囲にまで限定すること、その限定によってもたらされる、'世界全体に対しての'狭さだからである。もともとあった世界全体を限定するのだから狭くならざるをえない(広くなりようがない)。あくまで純粋に相対的な関係性を指しているから、(肯定や否定といった)様々な価値判断の入り込む隙はない。

この諺を引き合いに出したのは、意味は勿論、空間的なイメージも事実にそぐうものだからである。

ひとつ具体例を挙げてみる。草野球チームの4番打者とプロ野球チームの4番打者の主観的な体験に大差はないと思われる。というのも、各々が自分の世界(草野球チーム/プロ野球チーム)における強打者(世界の制約性から生じる評価)としての自負を持ち、競技に熱中している間は試合の展開や自身の成績が全てであり(全体性)、かつ、その熱中ゆえに、世界の外側はもはや心理から除外されている(無自覚性)からである。

もう少し書くと、制約性について、「歴史上、地球上の全ての野球選手」というくくりに世界を拡大した場合、草野球チームの4番打者はもちろん、プロ野球チームの4番打者ですら、もはや強打者ではなくなることがある。世界を制約して、その制約が適当であるから、両者は4番打者として自他共に認められる。更にいえば、この前段階として「野球という競技に取り組む」という2チーム間の合意があり、その合意がスポーツ全体から世界を限定している。スポーツ全体は行為全体から世界を限定している。両者を取り巻く(客観的)世界はこのように、入念に限定されている。全体性について。競技に熱中していない限り(つまり全体性が損なわれている限り)、快感情は阻害される。

この例からわかる通り、快感情はもはや能力の程度には依らない。

もう一つ例を挙げる。「私は善行をした」という快感情にも制約性、全体性、無自覚性は備わっている。これはとりもなおさず、3条件さえ揃っていればどんな外的な条件からも独立して、「善行をした」という快感情がもたらされうることを意味する。

この例から、善行をしたという快感情は必ずしも善行をしたことを意味(保証)しない。もっと一般に、ある行為を成し遂げたという快感情は必ずしもその行為の十全な遂行を保証しない。

以下は恣意的な一般論。

  • 制約性、全体性、無自覚性はこうも言い換えられるかもしれない。制約性: 客観的 - 世界の限定、全体性: 主観的 - 世界の限定、無自覚性: 体験への没入 - 認知階層の'一番外側'が主観的限定世界に一致
  • 欲求は'井戸の広さ'によって特徴づけられる。すなわち、低次欲求とは'狭い井戸'において満たされる欲求であり、高次欲求とは'広い井戸'において満たされる欲求である。高次欲求を満たすというのは、ごくわずかな限定を施した世界のもとで自己を把握するという過程を経てしかありえない。いうならば'大海を自在に泳ぎ回る蛙'のことである。もっとも大海とてひとつの'井戸'とみなせることに変わりはないから、結局は人は井の中の蛙としてしか快感情に届かない。
  • 狭さ、広さというものが相対的であることは、低次、高次というものも相対的であることを示唆する。「人間という機構」により「一番低次な欲求」が規定されるに過ぎず、またそれは'蛙がもはや住めない狭さの井戸'に対応する。例えば食欲は低次欲求の一つだが、人が空腹を感じる時には「空腹を満たす」という目的に心理作用が奉仕することを身体が強要するために、世界はもはや食せるもの、食せないものに二分された空間でしかなくなる、そういう意味で世界は極端に限定されている(井戸は極度に狭くなる)。また、空腹が満たされるやいなや速やかに快感情が減退していくのは、制約性と全体性と無自覚性が損なわれるから('我に返る'から)である。
  • 快感情のもたらされる条件が厳しくなることは、井戸(= 世界)の拡大を意味する。逆もいえて、世界が拡大すると、快感情のもたらされる条件は厳しくなる。ゆえに、今持っている以上のことをもはや考えず、知ろうとせず、感じようとしない限り、快感情は理屈の上では同条件的にもたらされる(はずだがほぼありえない。生きている限り知見が降り積もってしまうことは避けられないから)。手っ取り早く快感情を求めるなら、世界を狭めればよい。能動的に知や感覚を衰退させればさせただけ、快感情は容易にもたらされる。
  • 快感情が得られないのは世界の限定が不適切であるからである。大海で泳ぐ蛙も、限度を超えて狭い井戸に詰め込まれた蛙も、快感情は得られない。あるいは世界を適切に限定していた場合にも、その限定の実態を把握する認識の方が病的になっている場合もやはり、快感情は阻害される。
  • どの快感情が素晴らしいだとか、どのようにして得た快感情が素晴らしいだとか、快感情に価値的な尺度をあてがうことはナンセンスである。制約性、全体性、無自覚性はどこまでも'自主的に'もたらされるのであるから、快感情を「得てしまえている」状態を、誰にも邪魔することは出来ない。快感情はこのように独断性と不可分だから、例えば善い快感情があるというのは、善さの絶対的・客観的指標が存在するということと同じくらい証明が困難、あるいは不可能な主張である。
  • 快感情を理由にして行われる行為はしたがって、全て独断的である。そのような行為が人類に遍く賞賛されることは断じてない。
  • 共通の快感情を目的として行われる共同作業が円滑になされることは稀である。各々が描く世界の相違、世界の解釈の相違が、当該の快感情の条件の相違をもたらし、条件の相違が作業態度の相違をもたらし、作業態度の相違が成員間の協調を阻むからである。ゆえに例えば、「楽しく活動する」といった類の活動目的が共有されたとして奏功するのは稀である。もっと大規模に、例えば「希望に満ちた国に」などという公約がおそらく実際の行政に落とし込まれ達成されることは稀である(希望を抱く条件がそもそも各人で多種多様だから)。
  • 他人の快感情を否定する、その価値を疑うといった心理の根底にあるのは、世界認識のずれの検知である(世界認識のずれそのものではない)。一般にその検知を優劣や善悪、是非に結びつける論理は空論であり、結びつけようとする動力及びその論調のもっともらしさは個人の利己性と利害関係から生じる。
  • 抽象的な意味では快感情を得る誰もが井の中の蛙なのだから、ここから純客観的で、無味乾燥とした、とことん均質な世界観が導出されることもなくはない。しかし時代は、'大海'で自己を満足させうるような大器を時折輩出する。彼らを差別化しその価値を貶めないためにもかような世界観は自制されるべきである。
  • ある宗教や〜〜主義に従って生きることはいわば'ひとつの井戸への永住'である。「世界はこれこれこういう風な秩序だから、こういう風に振る舞えば快感情がもたらされる」というひとつの偶然的な思い込みが信仰の種となる。世界の解釈を固定化することによって制約性が保証され、背景的な知識と多岐にわたる行動指針を充実させることによって全体性が保証され、「この宗教(主義)に従って生きるのだ」という気持ちによって無自覚性が保証される。つまりそれぞれの宗教や主義とはどこまでも、快感情を得ることの効率性の追及形態である。この過程で犠牲にされるのは、思考の客観性、普遍性、中立性と'呼ばれる'ものである。
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