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のべつまくなし

哲学と人生

マイノリティと現代音楽

哲学もどき

同じ長三和音がある調ではドミナントなのにある調ではトニック。物理的に同等なはずの音響現象が安心も不安も演出する。

これはおかしい。おかしいことを人間は(ある程度の確信を持って)平気で許容する。つまり人間はおかしな生き物なのだ。

このおかしさが恒常的に発生しうることを認めた人間は自分の解釈に意味を見出さない。一切の確信は抱いた瞬間捨てられる。彼らに安住の地はなければ安息の夜もない。明日になれば何もかもが転倒した世界が開けている可能性に夜も眠れない。自分がいまトニックとして聞いている長三和音が明日ドミナントに聞こえない保証はどこにもない。あらゆる主観はあてにはできない。

かといって客観性、厳密な論理性が安堵をもたらしてくれる訳でもない。論理性すらもおかしな生き物たる人間の所産に変わりはなく、現代では客観性が声高に追求され力を持っているだけにその押し付けがましさがネックですらある。「長三和音は綺麗な整数比で表せるから安心感がある」などと述べたところで、ところでその整数なるものを作ったのは誰だったか?綺麗さとは?客観性は主観の寄せ集め、良いとこ取りに過ぎず、元を辿れば一人の人間の、弱々しくなんの背景も根拠もない主観ではないか。なおかつ、仮に客観性が"本当に客観的"だとして、肝心要のそれらを統合するのは主観である。全ておじゃんだ。

結論真の安息などなく、安息らしきものが散見されるだけである。唯一救いなのは、安息など求める暇もないくらいせわしなく思考するのは可能なことだ。せわしなさは不安も安心も退ける。無秩序と言い換えてもいい。これは音楽で言えば、調性が曖昧なために音像がトニックやドミナントといった区別を超越した状態だ。まさに現代音楽ではないか。解釈の入り込む余地のないことが救いとなる。かといって完全なカオスではなく、意味がわかりそうでわからないのがいい。「作曲者がわざわざ作曲する。演奏者が舞台に上がる。音が鳴っている。じゃあ何かしらの意味があるんだろう」という"思考の調性"からの脱却がそこにはある(これが言いたかっただけ)。

そして話は幸福論に飛躍する。社会には秩序が必要だ。しかし維持「される」秩序において、各人の役割は硬直的になる。これは、ある通奏低音の上では、ほぼ全ての和音が硬直的な性格を余儀なくされることによく似ている。あらゆる音は調性に基づき協和不協和に判別される。音が集まれば自ずと「消えるべき音」「変わるべき音」は出てくる。その疎外を正当化する調性は、音単体、和音単体で存在する限り認識し得ない相対的なものであるにも関わらずだ。調性を絶対視「できてしまう」のは人間のおかしさの一つだ。

しかも、調性感覚は時代を経て変遷する。現代人の耳は昔より平均律的だ。それに仮にたとえば53音平均律音楽が未来に流行した暁には、12音平均律は狂って聴けたものじゃなくなるかもしれない。そういう事情があってなお、今日人間は12音の調性音楽に感動できてしまう。現代の音楽観に飼い慣らされただけなのに。

僕は、全体として現代音楽が鳴り響く社会にこそ可能性を感じる。調性の排除された社会を見てみたい。そこでは誰もが均等に無意味だから、協和はその意味を長く保てないかそもそも意味を持てない。微分音にすら誰も文句は言わない。文句を言う基準(=調性)が見当たらないからだ。

歴史上通奏低音は鳴り止まず、調性破壊の試みは幾度となく失敗に終わってきた。だからこそだ。数十人の組織ならそれっぽいことも出来るだろう。しかし規模に欠ける。フェスティバル(祭り)の参加者の振る舞いは現代音楽的だ。しかし継続性に欠ける。国家規模の継続されたケースを見たい。

無表情で現代音楽を聴く未来人を想像する。そこでは意味のあることに意味がないのだ。かといって意味のないことに意味は勿論ないし、また意味を見出した途端それは意味のないものになる。そして最終的には意味という概念が消え失せねばならない。意味のなさを求めるのは既に意味だから。その時達成されるのは安息がないという安息だ。

嫌われる勇気の正当化条件

雑感

「嫌われる勇気」はいついかなる時でも発揮していいわけじゃなさそう、じゃあどんな時にどんな風に発揮していいものか?がテーマ。1061字。

典型的日本人気質の持ち主は、周りの人に嫌われまいとしてあれこれ思い悩む。

ある日彼はとある書籍と出会う。「嫌われる勇気を持つことが必要だ」という考え方を咀嚼して、彼は心が軽くなるのを感じた。

彼単体を見ればそれは望ましいことなのだろう。しかし社会全体で見れば話は変わる。嫌う労力なるものが世の中にはある。

(ここで労力とは単に心的、身体的な苦労のこと。)

労力を負担するのが誰なのかが変わっただけで、社会全体での総労力は増えたかもしれないではないか、というのがひとつの論点だ。

例えばいま、高橋くんには3人の近密な同僚がいる。嫌われる勇気を身につけた高橋くんは気が楽になるかもしれない。しかし、同僚が「前の高橋くんの方が断然良かったね」と口々に言い出したら、嫌われる勇気の望ましさは疑わしい。

高橋くんの労力が3減っても、3人の同僚の労力がそれぞれ1ずつ増えたらもう"アウト"だ。嫌われる勇気はただの自己満足でしかない。つまり嫌われる勇気は、嫌う労力を加味した上で発揮されるべきである。

一般化するとこうなる。

 

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嫌われる勇気が正当化されるとしたらそれは、以下の条件の下でのはず。

Σ(k ∈ K)(ΔL_k) < L

ただし

K = 属する組織

ΔL_k = 他者kが自分を嫌うことによって新たに負担する労力

L = 嫌われまいとして自分が負担していた労力

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ただここで疑問が残る。

たとえ組織全体の総労力が減ったとしても、かつて自分が負担していた労力を他人に転化していいものなのか? 

嫌われる勇気を発揮して実際に嫌われるとすればそれは、自分に内在している問題点の考慮の放棄ではないだろうか。簡単に言えばただの開き直り。

よってここでは、嫌われる勇気を発揮していいのは「実際には好かれるような価値を持っているのに今ひとつ踏み出せない人」だけだ、という価値観に則って、嫌われる勇気の正当化条件を書き直そう。

 

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Σ(k ∈ K)(ΔL_k) < 0

ただし
K = 属する組織
ΔL_k = 他者kの自分に対する労力の増減分

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この条件の特徴は自分の労力Lを考慮しない点にある。

自分が辛いかどうかは関係ない。他者に楽させるための行動を起こす際の嫌われるリスクを背負う、という種類の嫌われる勇気こそが、本当に求められているものだ。

挫折と足場

雑感

音楽とだけ戯れていたいけれど、才能がなければそういうわけにもいかない。

音楽的才能に恵まれかつ研鑽を重ねる人たちの足場となるのが私の望みであり願いだ。

いつの時代も人類は、天才とその足場に二分される。

天才は独りでは天才たりえない。数え切れないほどの無念と羨望とに晒され続けながら、不純に蠢く権力への意志を否定し尽くしたころ、やっと舞台が調う。凡百の生半可な才能と誤謬的な使命感を踏み越えて、天才は登りつめる。

凡人の役割はその過程における環境の整備、及び天才の確信の強化への寄与である。

凡人が凡人なりに生きて初めて天才はより高みへと近づき、その才能を謳歌できるというわけだ。

凡人はその恩恵にあずかれる。音楽の場合の恩恵は、作品による魂の浄化と初心の喚起だ。

天才の作品はいつでも私の心を、然るべき形に整えてくれる。望ましい指向性に導いてくれる。その作用に全幅の信頼をおける。魂の可塑性が天才により保証される。

足場づくりにも精が出るというものだ。

孤独と順応

雑感

りんごを美味しく味わおうと思ったら、色々な選択肢がある。アップルパイ。手作り果汁100%ジュース。有機栽培の高額なりんごのお取り寄せ。

どれももちろん素晴らしいが、私が一番美味しいりんごの味わい方を伝授しよう。

断食直後に食べることだ。スーパーのりんご(1コ100円)でいい。それでもう十分すぎるくらい十分に、りんごは味わえる。

 

 

人間(生物)は順応する。快楽にも不快にも、私たちは頻繁で一定な刺激に対して同じ評価をくだし続けることはできない。

「たまに食べるから美味しい」といったときの美味しさを、決して毎日は味わえない。

 

 

人付き合いにおいても、私たちは順応する。

現代のsns社会はいわばつねにりんごを口にほおばるような状態で、果実を味わう暇なく、ただ栄養を得ているだけ、というのが不断に続く。これは断食とは正反対。人々は果実本来の美味しさなど久しく味わっていないのでは?

皮肉なことに、"人付き合いの果実"の味を一番よく味わえるのは、この世で一番孤独な人間なのだ。

逆もそう。孤独の味を一番よく味わえる人間というのは、世界で一番孤独とは縁遠い人間である。

 

 

人付き合いを誰よりも味わえる、誰よりも孤独な人間。

孤独を誰よりも味わえる、誰よりも孤独でない人間。

人は、順応していない方をよりよく味わうのだ。

ここから教訓が見えてくる。自分が生涯味わいたいと思う事柄には、順応しないのがいい。

順応してきたと感じる度、頃合いを見計らい"断食"する。極限の空腹状態で食べ物を口にして人は初めて気付くのだ。

「なんだ、美味しいってこんなものなんだ」

「美味しいってそういうことなんだ」

私たちの幸福感は、行為そのものよりはむしろ行為の頻度によって支えられている。

 

「閉塞できない人」が閉塞感を振りまく

雑感

悪政に導かれる民衆、という構図は見誤りで、怠惰な民衆をしょうがなく導く政治、の方が日本の現状をよく表している。責任転嫁だけに長けた愚者に対して、誰かが悪役を演じ、矢面に立たなければならない。今はそれが首相というだけ。

働き方改革が本当に必要か?成熟社会で生産性が頭打ち?残業削減が喫緊の課題?どれも真実味に欠けているようにみえる。それらは本当に構造(制度)の問題なのか?

構成要素の問題だろうと。頭が〇〇な人が多いだけだろう、と。例えば残業を規制したところで、その規制の範囲内でまたヒイコラ言いだす人達はおそらく消えない(かといって、構成要素に働きかけるには構造の変革以外にないのかもしれないのだけれど)。

 

 

 

私の狭い視野にすら、愚者は溢れている。かくいう私もどうしようもない愚か者だが、この愚かさの責任を政治に問うつもりは少なくとも毛程もなく、むしろ日本という環境の恵まれ具合に感謝している。愚かでありながらのうのうと生きられるこの環境に。

環境は十分整っており、それを活かす器が多く育っていないだけと感じる。多く育てられていないのもまた現環境なのだが。

日本はいま、愚かさを許容し過ぎているのだろうか。私ごときを生かしてなお、この国は国際的に成長しうるのだろうか。

諸悪の根源たる私のような存在が健全に淘汰されるような日本の未来を願っている。愚かで怠惰な人間は野垂れ死ぬべきだという考えは私の中に一貫してある。

/*まあ、愚者が淘汰されたところでその生き残りの下位数%がまた落ちぶれるだけだろうが。働きバチの原理は、愚者には愚者なりの存在意義がなくもないことを示している。それでも、ある程度の淘汰の先には全体の成長がもたらされる。愚者は短期的には不要だが、長期的には必要なのだ。*/

私の見渡す限り、卑屈な愚か者は日本には少ない。いま日本を蝕んでいるのはむしろ、「私だけは大丈夫」という虚妄にとらわれ、あろうことか不当な前向きさを自足する種類の愚か者だと思う。

彼らは本来恥ずべき愚かさを恥じず、本来苦慮すべき浅ましさを苦慮しない。恥や苦慮がなければ、能力や効率性の低さを解消しようというダイナミクスも生まれようがない。

そんな愚者の埋め合わせをするのは、恥ずべきを恥じ苦慮すべきを苦慮する、勤勉で良識ある人々だ。彼らは余計に背負っている。閉塞感があって当然だ。

この種の愚かさは無知に端を発する。無知がそうさせる。人間、知っていないだけで絶対に出来ないことが意外と多い。知っているだけで簡単に出来ることが意外と多い。

そしてそもそも無知は教育の質の低さに由来する。少なくとも未来の世代はまともに育って欲しいから、もう野垂れ死ぬべくして野垂れ死ぬような人間は放っておいて、子どもの教育に投資すべきと心から思う。人口に関しては、むしろ減るくらいが丁度いいという意見に賛同する。

小中学校の教員の劣悪な労働環境をなんとかしてほしい。過労傾向の教員がまともな教育を実現できるとは思えない。いたずらに愚者予備軍を輩出するだけの構造を放置していいのか(そう、こっちは本当に構造の問題)。

小中学校の教師7割、週60時間超勤務 運動部顧問は「午前7時前に出勤」も

/*ところで、こういう時代にうまく振舞って結婚し出産するような夫婦はおよそ優れた精神の持ち主だろうから、子どもも望ましい精神を育むだろう。少子化はさしたる問題ではない。少数精鋭。彼らに高い生産性を期待し、その期待に応じて存分にお金をかけておくのがよさそう。*/