マジョリティ vs マイノリティで一番批難されるべきは

意見を軽々しく変えるマジョリティに虫酸が走る

小学生の頃自分をいじめていた奴と大人になってから会い、「あのときは本当に悪かった」なんて頭を下げられる。

いやいや、今更謝られても、失われた時間、蹂躙された純真さは戻らないんだが?それならいっそ、今も敵対的でいてくれたほうが数倍マシなんだが?

謝るくらいなら最初からすんな。やるんなら謝るな。苦しんだ自分が馬鹿みたいだろうが。

今回の話は、そういう話と少し似ている。

「みんなが自分を愛せるように」東京レインボープライド2017、参加者の願いは?

こういった記事を最近とても良く目にする。もちろんイベント自体について、なんの文句も異論もない。

僕が違和感を抱くのはイベントに対してだ。

マイノリティが一念発起して大きなイベントを起こすと、勢力図が変わる。つまり、一部のマジョリティはそれを機に考えを改める。

いやいや。いやいやいやいや。

じゃあイベント前にお前に傷つけられたマイノリティの苦しみはどうなるの?

たかがイベント1つを機に(この言い方は語弊があるが、イベントを貶めるつもりはない。思考に求められるべき背景の深さに対比しての「たかが」)変えられるくらいの考えを、なぜ持つ。なぜマイノリティを追い詰める行為に転化できる。

その程度の浅さの思考に、その程度の緩さの覚悟に、マイノリティは傷つき、価値を貶められ、居場所を狭められている現状。

そういう浅い考えの持ち主がいなければ、イベントの必要性は生じなかったかもしれない。その場合、マイノリティが時間と労力、つまり人生を消費してわざわざ世に訴えかけるまでもなく、彼らの心の安寧は実現された。

マジョリティには2種類いて、うち片方が癌

便宜上、マジョリティを2つにわける。

  1. 迎合的マジョリティ: マイノリティをマイノリティとして、マイノリティであるがゆえに否定(肯定)するマジョリティ。
  2. 信念所持マジョリティ: マイノリティをあくまで対等な相手として、信念に反する(準ずる)存在であるがゆえに否定(肯定)するマジョリティ。

この言葉および定義は僕が勝手に考えたもの。

迎合的マジョリティはマイノリティの苦しみを感受しながらも、「現状を知りつつも行動しない同罪者」 = 「マジョリティ仲間」が多いことの後ろ盾に甘んじて罪の意識から目を反らしている。

彼らにとって重要なのは「自分の外側がどうなっているか」であり、自分の内側の確固たる意志や信念に従う気などさらさらない。そもそもそういったものを持っていないのかもしれない。だからこそ、外部の状況によって身の振り方をコロコロと、目まぐるしく変えざるを得ない。そういう生き物。

いざマイノリティの立場が見直される段階に入ると途端に手の平を返すのは、外部状況よりも優先すべきものをなにも持たないからだ。

そういう生き方もひとつの賢い生き方と言えるのかもしれないが、マイノリティの受けた傷が賢さや利潤で正当化されていいはずがない。

反対に信念所持マジョリティは、マイノリティのマイノリティ性に興味はない。彼らはマイノリティを、あくまでそういう性質を備えた一個人以上でも以下でもない、そういう風にみなしている。その上でそのふるまいの正当性や一貫性、生産性や創造性などを評価する。

読んでいただいたことでおわかりのように、迎合的マジョリティと信念所持マジョリティの人間的な到達度には天と地ほどの隔たりがある。

僕が前者を「迎合的」としたのにはわけがある。この2種類のマジョリティが一緒くたに「マジョリティ」と区分されている社会において、迎合的マジョリティは信念保持マジョリティの腰巾着をすることで様々な利益に与っているという、他力本願的で醜悪な生態を反映したネーミングにしたかったのである。

不当な差別は、迎合的マジョリティによってなされる

冒頭の話題に戻ろう。

出来事の2つや3つでは揺るがない信念にこそ、なにかを否定するにあたっての正当性は備わるのではないだろうか。

僕は、マイノリティイベントの2つや3つでは頑なに立場を変えないようなマジョリティ、つまり信念保持マジョリティに対してはひたすらに好感が持てるし、同じマイノリティの否定なら、彼らによる否定の方が余程善いと考える。

彼らは自分の内側に確固として一貫してあるものに基づいてマイノリティを(一個人として)否定している。

例えマイノリティの「被害」の実態の大部分を占めるのが信念所持マジョリティによるものであった場合でさえ、その方がマイノリティにとっては有り難いのだ。なぜならその手の否定というのは人間的に根源的であり、マイノリティの否定の先に人間社会の発展や繁栄を見据えている可能性が迎合的マイノリティのそれより遥かに高いから。

そういう否定によってマイノリティが打ちのめされていくとしたら、それは人類にとって必要な犠牲であったと受け入れることが出来なくもないからである。自然淘汰。

そういう意味で、信念所持マジョリティとマイノリティは対等だ。お互いに自分の大切なものの為に戦っている。それぞれ信念には一貫性があり、主張には生涯を賭けている。

迎合的マジョリティは違う。彼らは、自分に利する状況を呼び込むためには信念をも捨てる。あるいは信念などはなから持たない。ただただその時々で良い方に転びそうな勢力に加担するだけで、一貫性?なにそれ?てなものだ。

したがって、迎合的マジョリティのマイノリティへの迫害は、迎合的マジョリティの近視眼的で利己的な実用にこたうるだけの、ただただ不要な犠牲なのである。

近視眼的な実用というのは例えば、群集心理の心地よさだったり、(経済的)需要をたぐり寄せるための下賤な損得勘定だったり、多数性の後ろ盾に守られた手軽で安全な優越感への耽溺だったりする。

 

都合の良いときだけマイノリティを優越感の材料にして、時流の合うときだけ利潤の源泉にして。いざとなったら「元々価値を知ってたんだよ」と言わんばかりに擦り寄る。そんな彼らこそ真に社会的に議論の対象となる存在ではないのか。

いざマイノリティへの偏見が解消されたら、社会の最下層を占めるのは迎合的マジョリティにちがいない。彼らは間接的にマイノリティに守られているだけで、本来批難されるべき俗悪さを存分に秘めている。

そういう意味でも私たちは、マイノリティを不当に差別している段階から一刻もはやく抜け出すべきである。