遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

効率的な学習の原理/本質を考える

学習において大切なことは多岐にわたる。その中の本質を取り出して必要最小限の原理を確立させれば、あとは学習で立ち止まった際に都度その原理に立ち返ることさえ心がければいいわけだ。そういう状態は精神衛生上望ましいし、原理が実際に優れていれば学習の効率の高さが保証される。

以下では私が暫定的に採用している、個人的な学習原理を書いていく。

学習において大切なことは

  1. (成果÷労力)最大化の試み
  2. 経験主義: "脳は経験の彫り込む彫刻である"[1]
  3. 自発性の最大限の尊重

である。

「(成果÷労力)最大化の試み」について

例えば次の数列を覚える必要があるとする: 1, 2, 4, 3, 9, 27, 4, 16, 64, 256

愚直に暗記しようとすれば覚えることは10個ある。一方、「kの1乗、2乗、...、k乗を自然数kごとに並べたもの」というパターンさえわかれば、覚えることは3で済む: 「始めの数字」、「数字の総数」、「数字の出現パターン」さえ覚えておけば、この数列は完璧に復元できる。

「kは1から始めるのが習わしだ」という認識を前提すれば、覚えることは更に2に減る。

この単純な例ではおおざっぱに3〜5倍の効率性の差が生じている。

しかもパターン認識の長所は量的な面だけに留まらない。それは質的にも優れている: 「愚直な暗記法」と「パターン認識に基づく効率的な記憶」は質的な違いをも学習にもたらす。思いつくだけでも

  1. 一般に、愚直な方法論を貫徹できるのは目的が明瞭でかつ報酬が確実に与えられる場合に限る。要するに愚直な暗記は途中で嫌になる。対照的に、パターン認識は楽しいしやりがいがある。パターン認識に失敗した場合でさえそこには良い思考過程の痕跡が残るので無駄にはならない。仮に2つの方法の間に、労力と成果の面で何の違いもなかったとしても、それらの体験の質はえてして段違いになる。
  2. 愚直な暗記法は一切の応用が利かない。たとえば「この数列の続きを書いてください」という要望に対する妥当性のある返答には、パターン認識が必要になる。
  3. パターン認識しようとすること」それ自体に独自の価値がある: パターン認識潜在的な価値は、単なる労力や時間の節約以上のものである。対象のパターンを看破するには、注意力を動員して対象間にある相互関係や因果関係に着目しなければならない。場合によっては知識の連想も役に立つ。そうした過程で利用されるのは推論能力を始めとした高次認知機能であり、明らかに、愚直な暗記では活性化しない脳の部位が活発に働いている。複数の高次機能が協調的に働けば働いただけ、より質の高い認識をより容易に得ることができる、と期待するのは自然だろう。

といった点がパターン認識の価値を裏付ける。

要するにパターン認識は学習を早めるし、"パターン認識を試みること"は学習を深める。

学習においては、

  • 最小の労力で求められた成果を達成するためにはどうすればよいか
  • そのために自分には何が不足しているのか
  • その不足を将来的に補うことは可能か

を、持てる知識と知力と知能をフル活用して考えるべきである。そしてその過程でパターン認識が自然発生する。だから「パターン認識によって学習効率を高める」というよりは、「学習効率を高めていった結果パターン認識に至った」という方がきっと正しいのだろう。 「(成果÷労力)最大化の試み」と銘打ったのはそういう理由がある。

ちなみに”パターン認識”と大仰に言ってはいるけれど、先の例のようにパターンを必ずしも客観的、定量的、具体的に記述する(認識する)必要性はまったくない。要は自分が「そういうパターンだな」とのちのち想起できさえすればいいのである。その意味でパターン認識はおおいに創造的でありうる。

それなので、このテーマを標語的に言い換えれば、

  • 創造的に(=発見的に)学習しましょう

ということになる。

経験主義について

学習の大部分は脳の状態に依存する。脳科学的な知見を積極的に取り入れましょう、ということ。

先のパターン認識が精神論ならば、こちらの原理は物事の物質的側面に焦点を当てる。物理法則に反することは起こらない。学習の非効率性が物理的に必然的であるにも関わらず、そのことに気づけずに根性論的に努力を積み重ねていないかどうかが、十分に検討されていることが望ましい。

当記事は一応「原理」なので具体的な脳科学の知識については省略するが、「脳は経験の彫り込む彫刻である」という格言は心に留めておく価値がある。経験が経験を規定する。良い経験の原因は良い経験である。どこか一点で「良い経験」を自分に引き寄せた後は、その経験を中継点として、更に良い経験を呼び込むことができる。

学習のモチベーション維持と、カオス理論の親和性は高い。蝶の羽ばたきが台風を引き起こすように、今日ほんの少しだけ欲張って学習したことが、遠い未来で歴然の差異を生み出すことはある。

読書家を読書家にしたのは、ほかならぬ読書である。勉強ができる人は勉強をしたから勉強ができるのだが、そもそも勉強をするのは勉強ができるからだ。学習は因果循環する。わかるのはできているからであり、できるのはわかっているからである。

因果循環が始まっていないうちには、自分に合うものを探してのんべんだらりとさまよえばよい。そして始まったあとはもう、身を委ねてしまえる。

ある経験から別の経験までの過程を支配するのは物理法則であり、そこに意志的な努力は要求されない。自分にできるのは、因果循環の始発点となっている特定の経験に、どうにかして行き着くことである。しかしその始発点は別の経験の連鎖列の終着点である。経験の遡行を繰り返すことで、今日の自分にとって実行可能な経験を始発点とする長大な経験列が想定されることがありうる。その時、推論過程で間違いが生じていなければ、私は能動的に「始発点となっている経験」さえ遂行すればよい。

経験に敏感に、貪欲になるに越したことはないかもしれない。極端な話、「学習に寄与しない身の回りの事象を見つけ出すことのほうが難しい」くらいの価値観も一興である。

ついでに学習と才能について。

「学習の結果は才能によるのだから、才能がないのに、あるいは才能の程度が不足しているのに、努力しても仕方がない」と信じて疑わない人がいる。たしかに学習において、遺伝的、先天的な要因は無視できない。しかしそれらの要因が決定づけるのは「スタート地点」と「車種」であり、「どのルートを選ぶのか」に関する全裁量は私たちに委ねられている。

この裁量について自分がどう感じるかはどうでもいい。なぜなら産まれてしまっている以上、どちらにせよこの裁量以上のことはできようもないからである。

この与えられた裁量を活かさない人たちは「どこに行き着いたのか」で物事を測りたがる傾向にある。しかし(この比喩でいうと)人生はドライブであり、通ってきたルートでの経験は、明らかに到達点と同じくらいかそれ以上の価値を持つ。

自発性の最大限の尊重

やらされていることそれ自体も、やらされた結果到達するであろう成果も、くだらない。他律的な過程の帰結が失望と後悔である。

私たちは「自分の意志していることは、まさに自分が意志していることだ」という感覚に信頼を置いているが、残念ながらそれは幻想である。私たちの意志の大部分は、社会(家族〜組織)によって発現するよう調整された、受動的で外発的な意志でしかない。

しかし、質の高い学習の可否は

  • 自分に不向きなことをいかにやらずに済ますか
  • 自分に向いていることをいかにやるか

にかかっているので、自分にとって本来的でない意志を抑制することが肝要である。

その実現の指標となるものの1つは自発である: 自分から拒んだこと、自分から率先して行ったことに着目することで、自分の正体、自分の願望を深掘りし、学習の指針を定める。

(生活上の必要を度外視すれば、)自分がオートマティックに学習に取り組むことのできる分野を選べばあとで楽である。卓越した人間の日常は自然性に満ちているとつくづく思う。かれらには無理がない。無理がないから学習を蓄積できるし、学習を蓄積できるから無理がなくなる。

そのほかに、素朴な気持ちにアンテナを巡らせること、感情に素直になること、も有力な指針だろう。私が大切だと感じるのは苛立ち疑問である。そもそも自分にとってどうでもいい分野であれば苛立ちも疑問も抱かないはずである。頻繁に苛立ち頻繁に疑問を抱く領域でこそ、隠された自分の本来性を観取する可能性を模索してみる価値がある。

 

 

[1]『脳からみた学習 −新しい学習科学の誕生』OECD教育研究革新センター