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のべつまくなし

哲学と人生

読書で頭は良くならない、しかも微塵も

まえおき

もちろん、タイトルに異論を唱える人は山ほどいるだろう。「私は本を読んで頭が良くなったぞ」と自負している人がたくさんいることは僕も知っている。

頭の良さという言葉の定義は人それぞれで微妙に異なるから、ここでは言葉の定義から順を追って書いていく。

本題

読書によって高められるのは遂行能力のみであり、したがって頭の良さは読書によってはなんら変わらない。

こう言ってもいい。

読書して利口そうにみられることは出来ても、より利口になれるわけではない。

そう思う理由を書いていく。

まずは言葉の定義から。

  • 本: 著者による一連の命題の提示

本によって著者は、「あなたはこの命題の真偽をどう判断するか?」を読者に問いかける。

  • 読書: 本に書かれている命題を正しく認識したうえで、それを理論的、経験的、価値的に反論しようとする行為

「なるほど、ためになったね〜〜」「う〜ん、著者は終始正しかったなあ」で読書を終わらせるのは論外である。

著者にとってそんな読者は存在してもしなくても何も変わらない。(まともな)著者というものは、自分が正しいと思うことだけを書くのだから。

また読者にとっても、そんな本は元から存在しなくても良かった本といえる。読者にはその本の命題が正しいと判断できるだけの素地がすでに備わっているのだから、遅かれ早かれ、生きていく中で本に書かれているようなことには気づけるはずだ。

ゆえに読書の本質は反論にある。「読者なりの反論の仕方」が本によって引き出されて初めて、読書という経験は有意義になる。

この反論は正当でなくて構わない。もちろん正当であることに越したことはないが。とにかく現状、読者として反論せざるをえないということそのものが、読書の本質をなしている。

  • 遂行能力: なにかしらの行為を成し遂げるために用いられる能力のこと
  • 頭の良さ: 遂行能力を統括・支配する、認識において一段階上位に位置する人格

これらは後に、改めて厳密に定義をする。

遂行能力と頭の良さの僕なりの定義

ところで読書をする際の、反論する自分はどのように形成されたのだろうか?

これは一言でいえば生きていく中で形成されたのであって、一冊の本を読書した2人の読者について、2人の人生が違えば反論箇所も違うだろう。

一冊の本があったら、それを読んだ感想を聞くことでその人の人生を垣間見ることが出来るし、読者間の人生の相対的な比較をすることも出来る。

ということで、ここで遂行能力と頭の良さを、一冊の本によって定義することを試みる。

ある本 $ x $ の読者全体を $R_x$ 、読者 $r \in R_x$ の本 $x$ によって得た「新しい何かしら」を $N_x(r)$ とする。

  • 本 $x$ によって得られる遂行能力 $A_x$ は
$A_x=\bigcap_{r \in R_x}^{} N_x(r)$
  • 本 $x$ によって測られる 読者 $s$ の頭の良さ $I_x(s)$ は
$I_x(s)=N_x(s) \setminus \bigcup_{r \in R_x,r \neq s}^{} N_x(r)$

新しい何かしら $N_x(s)$ には反論も含まれる。とにかく、「その本がなければなかったもの」「読書経験を通じて初めて生じたもの(初めて実在性が認識されたもの)」全てが含まれている。

定義し直した遂行能力と頭の良さを、改めて言葉で言い換えるとこうなる。

  • 遂行能力とは、その本の読者誰もがその本から得られる、新しい何かしらのことだ。その本の持っているチカラそのものズバリ、と言っていいだろう。その本を読みさえすれば誰もが確実に得られる恩恵、それが遂行能力と僕が呼んでいるものだ。
  • 頭の良さとは、その人でないと得られなかった本からの収穫(反論)のことだ。遂行能力がその本から得られた普遍的なものだったのに対し、頭の良さはその人だけが本から得たものを表している。

極端な例で言えば、$I_x(s)=\emptyset$ である時、読者 $s$ の頭はまったく良くないか、もしくは本のレベルが読者 $s$ にとって高すぎて、その本の遂行能力 $A_x$ 以上のものを得られていないことになる。

ちなみに、数式での定義と最初の言葉による定義とは、一応矛盾はしないつもりである。言葉と数式で語り口が違うだけで、僕としては同じものを定義しているつもりである。

頭の良さが特別な読書体験を生み出す

ところで読者 $s$ にとっての読書経験というのは $N_x(s)$ にちがいない。頭の良さの定義式を変形して

$ N_x(s) \subset I_x(s)\oplus \bigcup_{r \in R_x,r \neq s}^{} N_x(r) $

右辺の第二項は、読者 $s$ が自分の読書体験のうちで誰かしらと共有できる部分の全体を表している。これは読者 $s$ にとってはどうしようもない部分であるから、読者 $s$ の読書体験を実質的に左右するのはその頭の良さということになる。

(上の定義に基づいて話をすればだが)頭の良い人は読書によって独自の何かを得ている。頭の悪い人は、頑張って本 $x$ を読むことでその遂行能力 $A_x$ を得ることは出来る。しかしそもそも、遂行能力があるかどうかは本 $x$ を読むか読まないかの違いでしかなく、そのようなものを携えて他の本 $y$ を読んだ所で $|I_x(s)|<|I_y(s)|$ となる、すなわち頭が良くなるとは考えられない(実際に $R_x = R_y\Rightarrow|I_x(s)|=|I_y(s)|$ は示せそう)。

頭の良さは相対的なものなのだから、頭の良い人より多くを得なければ頭が良くなれない。しかし読書で得られるものというのは、既に頭の良さによっている。読書によって得られる何かというのは、もっと頭の良い人には当然得られるものなのだから、読書は頭の良さを向上させてはくれない。というのがこの定義による議論の要旨だ。

くれぐれも僕は、「読書には何の意味もないんだよ」とは言っていない。読書をすればするほど遂行能力は蓄積され、そうなれば生計を立てるのも、人間関係を築くのも、感情に対処するのも、色々なことを容易に出来るようになるからである。

ただ、 なんというか運命的な、頭の良さの鍛えようのなさ、不変性があることはどうやら本当らしいという実感、仮にそんなものがなければ「馬鹿に付ける薬はない」「馬鹿は死んでも治らない」などの格言も生まれようがなかったよなあという見解は、日々強められるばかりなのである。

おまけ

世界の本全体の集合を $X$ として、人物 $p$ の絶対的な頭の良さ $I(p)$ は次のように定義できそうである。

$I(p)=\bigcup_{x \in X}^{} I_x(p)$

この集合と包含関係についての順序を考えれば、頭の良さに基づいた人類の順序集合が(理念上は)出来上がる(比較可能性はいえなそう)。

客観的思考への3つの困難性

客観的思考はどうしたら出来る?

自分という存在からなるべく離れた所で( ≒ 客観的に )思考するにはどうすればいいか?これは多くの人にとって重要なテーマだと思う。

客観性を損なうもののひとつはレッテル貼りだ。

たとえば僕は気持ち悪い理系大学生男子だが、Aさんが僕に対して「これだから男は嫌いだ」「これだから大学生はだめなんだ」「理系は気持ち悪いな」という風に一般化したがる、というのは早とちりだ。Aさんが嫌いなのは僕であって、僕がだめなのであって、僕が気持ち悪いのだ。

しかしAさんが僕の他に気持ち悪くいけ好かない理系大学生男子を数人知っていた場合どうだろう?Aさんは自分の言い分について、その人数に比例して確信を強めるだろう。認識の原理として、反例のない数多くの同様な現象は、相関関係として確定したがるからだ。

レッテルを貼りたくなる気持ちは人の普遍的な認識形式によるものだから、普遍的なものだ。

確かにレッテル貼りをすると楽だ。いま、初対面の人と交流しなければならないとする。素性が知れない相手にある種の属性を見出したら、利用可能なレッテルがある場合、それに基づいて相手の性質を予想できる。すると行動の予測可能性が高まる。行動が予測できれば関係の築き方を確定できる。確定できればもう考えることにメモリを割かなくて済む( = 楽できる )。

しかし楽さと引き換えに論理的厳密さは失われている。

楽さと論理性がトレードオフであることを示すには、人間の心理傾向に着目するのが良さそうだ。

楽したいがために早とちりするのが人間 ⇔ 楽ならば早とちりの可能性がある

利用可能性ヒューリスティック。人は参照しやすい知識や経験により影響されやすい。場合によっては影響されやすいどころか、手頃な情報だけを都合よく解釈して早とちりをする。

数学科生が世の中を数的に解釈する癖があるのは、日常的に数を扱っているからだ。音大生が街中の音に敏感なのは、普段から音を解釈する練習を積んでいるからだ。同じように、プログラマはWEBサイトのソースに気を配るし、調理師は飲食店の料理の盛り付けにうるさい。

/*......と書いている私がすでに利用可能性に侵されていて、これらの例が僕の頭に浮かんだのは僕が数学科生で、音大生に会ったことがあり、プログラミングを勉強し、昨日飲食店に行ったからである。

また、数学科生だからといって世の中を数的に解釈するだけとは限らない。これは、僕がステレオタイプ的な人物像にアクセスして楽をした結果、こういう安易な文章を綴るに至っている。冒頭のAさんと僕は同じように楽をしている。

そもそも利用可能性ヒューリスティックという概念を僕が脳から引き出したのは、昨日ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』を読み返したからだ。*/

概念がその利用可能性を発揮するための接触頻度には閾値があるようだ。つまり、ある一定水準以上の頻度で接触した概念でないと、脳はその概念をいざという時に引き出してくれない。

過度に浅く広くの学習では、それぞれの概念への接触頻度が閾値に達しない。結果として各知識の利用可能性は極めて低いままにとどまる。

これを良しとすべきか否かは微妙なところだろう。学習が意味をなさないとも言えるからだ。ただ、少なくとも利用可能性ヒューリスティックへのさしあたり対抗手段として有力ではある。

しかし根本的な解決には程遠い。結局人は相対的に最も頻繁に接触した概念からの影響を受けてしまう。人の思考において決定的な役割をもつのは接触頻度の序列であって頻度そのものではないのかもしれない(ただし接触頻度が閾値を超えていることは必要)。

ただ生きるだけならどうでもいい

ではそもそも、利用可能性ヒューリスティックが障害となる営みとは?利用可能性ヒューリスティックがむしろ鍵となる営みとはなんだろうか?

後者は生きること全般、といっていいだろう。生物は必要な能力しか残さない。心理的傾向が"ある"ということは、その傾向は生きるために必要なのである。さらに具体的に言えば"楽に生きるために"必要であり、人は利用可能性ヒューリスティックによりレッテルを貼り、知的消耗を回避することでエネルギーを節約している。

身もふたもない話だが、ただ生きるにあたって、利用可能性ヒューリスティックを意識的に回避する必要などまったくないということになる。

しかし人間の営みは多岐にわたり、一部の営みの指向性と心理傾向性は正面衝突している。すなわち前者の営みだ。

客観的思考への3つの困難性

利用可能性ヒューリスティックとは改めてこういうことだ。

  • 人がある命題の真偽を判定する時、前提としている経験や知識が必ずある。そしてその"前提の選び方"というのは、意識的に変更しない限り"思い出した順"になる。
  • 知識や経験を思い出した順に並べた結果、それっぽいストーリー( ≒ レッテル )が発見されたら、人は論理性を確認しないうちにそこに飛びつく。論理関係をさっさと確定させて、考えることをサボりたいからだ。

ここから、客観的にものを考えるための3つの困難性が考えられる。

  1. (前提集合を充実させることの困難性) そもそも、客観的な認識に必要な概念を溜め込んでおかないと話にならない。ごく限られた経験、ごく限られた知識の持ち主は蓋然的に普遍的な認識には到達できない。
  2. (前提の選び方の困難性) 客観的な認識に必要な概念を持っていたとして、それを前提として正しく選び取らないと、のちのち論理に綻びが生まれる。無意識的に選びだした概念はただ単に思い出しやすい概念というだけで、論理的必然性は必ずしも備わっていない。利用可能性ヒューリスティックの"障害としての真骨頂"、すわなち客観的思考にあたっての一番のネックはここにある。
  3. (論理の困難性) 第2段階までで材料は揃った。あとは論理的な誤謬を避けるだけであるが、それが容易なら数学や哲学は今頃もっと発展していただろう。

それぞれの困難性に対応する現象は次のようになると思われる。

  1. 学習と経験の不足、低い認識視座ゆえの誤った目的意識
  2. 利用可能性ヒューリスティック
  3. 論理力の不足(そのまま)

美味しい料理を作るには、まず食材かごを充実させ、そこから過不足なく材料を選び取り、適切に調理すればいい。それは簡単そうに見えて、本当に出来る人はごく限られる。この3STEPどれもが、鍛錬と能動的努力を要する、人間には途轍もなく難しい営みなのだ。

人間の限界?

どんなに頑張っても、知識や経験、すなわち人生の構造以上のことは生み出せない。せいぜい人生の投射がいいところであり、その人生の投射ですら、具現化には多大な苦労と努力を要するのが、人間の認識形式なのだ。

大抵の判断や認識というものは主観的であり、その人が頻繁に触れている概念に多大な影響を受けている。接触頻度の高い概念に偏りがある場合( 99%以上の人間はそうだろう )、判断や認識にも偏り(歪み)が反映される可能性が高くなる。

その偏りは専門分野に閉じこもった場合には長所となるが、もっと広く、世間一般、人類一般で共有できるような認識の構成においては短所になりやすい。全く反対方向に偏った人間同士は、お互いにお互いが何を言っているのかわからない。

普遍的な認識に到れる人間というのは、経験や知識に究極的に開放的であり、あらゆるレッテル貼りを自制し、つねに意識的に理論を体系化する。

日記の是非

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日記なんて書いて何になる?いいようのない、ナルシシズムへの嫌悪が根底にある。残しておくような価値が今日という日にあるか?んなもんあるか。あってたまるか。1人の人間の一日の事実の列挙ないしは心理。う〜ん、塵ほどの価値もない。生ゴミのほうが100倍は有用だ。

なるほど日記をしたためておけば、ふとした瞬間にいつでも過去の出来事を参照できる。在りし日が文字によってありありと蘇る。最近は日記アプリなんてものもあるから、写真や動画も添えての日記を残しておくことで、過去はより鮮明に、より長期的に保存できる。テクノロジーさまさまである。

......出来ていいのか?残せていいのか?そもそも残せているのか?過去は過去だ。どんな詳細な日記を残そうと、過去をそっくりそのまま味わうことなど出来ない。記憶の中の過去は現在の僕による解釈を通して歪められている。それはいくぶん美化されたり醜化されたり、捨象されたり捏造されたりして変質している。幻想、それ以外の表現が見当たらない。真に過去を振り返れる人などいない。日記によって再現度を高めた所で幻想に変わりない。幻想に縋って何を得ようというのだ。

そんな風に捉える身としては、日記に時間を割くことの意義がよくわからない。否定的ですらある。

こういう風にも思う。日記に過去を書きつけて過去に価値を認めるのはなんだか、未来に価値をあまり望まないことと似ていないだろうか?そこにはなんだか虚しさや寂しさがある。日記に残すくらいだから、今日にそこそこの(あるいはかなりの)価値を見出したことになる。人生は明日以降も続くのだから、

(未来のための準備の効用) < (過去を保存することの効用)


という不等式が成り立ってしまう。「いやあ、良い過去だった。未来にこれ以上は望むまい」という「悪い方の潔さ」を多少なりとも嗅ぎつけてしまうのだ。どうしても。

そして何より、日記に残しておかないと忘れるような過去をわざわざ残す理由がない。これに尽きる。

「いや、そうじゃないよ」と。「思ったよりも日記は未来のあなたに恩恵をくれるかもしれないよ。」そんな風に説き伏せられかけたら僕はこう言い返す。「そんな不確定な恩恵に縋るほど僕は楽して生きてない。」

これは僕の偏屈な意地でもある。日記といういつでも頼れる慰めがあると、未来に全力で臨んでいこうとする姿勢や意欲が必然的に削がれてしまう気がする。僕の見積もりによれば、過去への執着というものは、未来への意志をひどい時で9割削ぐ。

過去なんてものはもう戻ら(れ)ない以上、みすぼらしい、最悪で醜悪な幻想くらいでちょうどいい。日記になんて残したら、わざわざ現実に"格下げ"することにならないか?

戻りたい過去なんて邪魔なだけだ。過去には戻れないから。すると、過去とは戻りたくはないものだ。戻りたくはないものを記録すること、すなわち日記を書くことはなんにもならない。

などと僕が思えるのは、しょうもない人生を送ってきたから、つまり過去に価値を見出せないからなのかもしれない。

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さて、以上が僕が数年前に書いた"日記"だ。この文章ファイルは僕が過去を振り返らない限り見つからなかった、というなんとも皮肉の効いた状況である。

日記に価値はないという見解は相変わらずだが、日記を書いている瞬間というのはもしかしたらなかなか悪くない瞬間だと今では感じる。

日記というのは別に未来のための行為でも、ましてや過去のための行為でもないのかもしれない。ただその瞬間瞬間で、心の琴線に触れた感情、感覚、直観、論理、境遇や交友関係、時事問題や時代の潮流、知人の振る舞いを書きたいから書く。書くことと思うことは少し異なる。その差分を摂取している。現在進行系の行為の中で何かが余計に生まれている。現在による現在のための行為。日記を書くとはそういうことだ(ほんとかよ)。

/*しかしいずれにせよ、日記が未来には不要であるという僕の意見は変わらない。現在は未来のためにあるべきだ。そして死の瞬間にだけ、現在が現在のためにある。そんなささやかな理想をもっている。僕はその瞬間が楽しみで仕方ない。*/

像と残像としての世界

現象を単にとみなそう。すると、あらゆる現象には残像とでもいえるものが伴うようにみえる。像には残像が伴うから。

感情には残像がある。念願叶った翌朝も喜びに浸れるのは、達成感に残像があるからだ。悲しみはおいそれと癒えない。悲しみの残像は週単位、あるいは年単位で私たちを苦しめる。

感覚には残像がある。技能を磨いていく過程で「は、もしかしてこういうことなのか!?」とひらめくことがあるが、このひらめきの効用の持続期間は有限だ。ひらめきの残像が残っているうちに、記録に残すなり、意識的な一定量の練習をこなすなりして、私たちは技能を着実に高めていく。

人との交流には残像がある。私たちはいままでたくさんの人達と交流した。10年前のあの人と交流(会話)したときの残像がいまだに残っていることもあれば、昨日の交流ですら場合によってはすでに残像が消えていることもある。いずれにせよ、対他人の交流という像は次第に減衰し色褪せ、一定時間後 完全に消滅する。消滅するまでの間、私たちは残像により慰めや懐古をえる。

さて、残像についてどんなことが言えるだろうか。

何事も、残像が残っているうちに次の像を補足するのがよい残像は私たちにとって重要な何かを示唆している。私たちはそこから何かしらを能動的に汲み取らねばならず、また汲み取った何かを次の像の解釈に適用することで初めて、向上していくことが出来る。すると再び残像にでくわす。この循環過程をひたすら繰り返す。間を置いてはいけない。全ての残像が消え去った時点で私たちの生きる意味は終る。

次のこともほぼ事実だろう。残像の持続時間の長短は自分の傾向性を如実に反映する。つまり、長く残る残像こそが自分にとっての本質を内包している。

次も言える。残像の残り具合とは、その像( = 現象)の効用の減衰具合である。残像が明瞭なうちは現象の効用も高い状態にある。この効用の高さを生への活力に転換できるか否かが、充実した生を送るかどうかの分かれ目となる。

最後に、残像の明瞭さは(大抵のケースで)単調減少する。像を補給しない限りは、今日より明日、明日より明後日、残像は刻一刻と不明瞭になっていき、失われた明瞭さは絶対に取り戻せない。

以上のことを踏まえて、像と残像としての世界における望ましい生き方とはどんなものか。

私たちは像または明瞭な残像と、つねに触れ合っていなければならない。また、より鮮明でより長期にわたる残像を伴うような像をつねに探し求め、補足し続けることこそが私たちの活力の源となる。

知識詰めについて

ねんどの塊を目の前にして「自由に造形してください」という課題を与えられたとする。あなたは自由に発想して、動物なり彫像なり、完成像に向けて手を動かし始める。

ふと横を見ると、同じ課題を与えられた別の人が、ねんどベラを使ってねんどをいじっている。あなたは「不公平だ、私にもねんどベラをくれ」と、ねんどベラを貰う。造形のしやすさがいくらか増すだろう。

更にふと後ろを見る。なんと電動の工具を用いて精巧な造形をしている人がいるではないか。あなたは「私にもあの工具をくれ」と言う。「いいけど、操作が複雑ですよ」と言われあなたは訝しむ。「私だってそれくらい使いこなせるさ。」

さて、以上の寓話で伝えたいことのおおよそは書けた。

創造性や生産性の追及にあたり、知識は道具としての一面を持つ。そして道具としての知識は日進月歩、日々洗練されている。

最先端の"道具"を巧みに使用するためには、前時代の旧い道具に習熟していることが望ましい。そしてその旧い"道具"の習熟にあたっては、更に前時代の旧い"道具"への深い理解があると望ましい。この階層を、その道具の起源まで遡っておくのが断トツで望ましい。そりゃ、理想はね。

ここで、道具としての知識の具体例をば。理学で言えば公式。語学で言えば構文。Javascriptに対してのJQuery。

知識 = 道具を使えば一瞬で済むような作業工程を一から手作業でするのは無駄である。こんなことは誰でも知っている。

しかし知的作業となると人々はそのことを忘れがちになる。随所で「考える力」「問題解決力」などの言葉で、自分自身で考える力の重要性が声高に叫ばれているが、何から何まで一から始めようとする姿勢は時代錯誤もいいところ。

競争社会においてまず重要なのは、相手と自分の条件(作業環境)を出来る限り揃えること。これは最低条件だ。ここから色々な話が展開し始めるのであって、スタート地点である。

この条件すら満たせず、作業条件が相手より劣悪な場合、いくらもがいてもあがいても、自分の能力が相手より遥かに卓越している場合を除いて勝ち目は薄い。

そして、この「作業環境を相手に揃える」行為こそが、知識詰め、つまり道具としての知識の習熟にあたる。

ねんどベラで3Dプリンタに立ち向かう。それはそれで稀有なことだ。手作業ならではの味わいといったものがウケるかもしれない。しかし99%ない。ねんどベラを用いての制作物の99%の凡作は、3Dプリンタを使えば1分で完成する。つまりねんどベラを用いて市場でウケる確率は1%以下とみていい。

したがって人々の大半は、意識を3Dプリンタに向けるだろう。しかし、3Dプリンタを安価で使用できる状況下では、もはや3Dプリンタを使えるか否かでは勝敗は決まらない。そんなもの誰でも使えて当然という世界。その先の「どう使うか」が勝敗を決する。

潤沢にあるものは潤沢に使わないとその先に行けない。潤沢にあるものをほそぼそと使うのは前時代の方法の踏襲の域を出ず、すでにやり尽くされた手法をなぞっているだけの可能性が極めて高いからだ。

 

 

昨今、「Googleでなんでもわかるのだから知識を蓄えておく必要はない」というもっともな見識が散見されるが、Googleが提供してくれるのは「むき出しの道具としての知識」までで、道具の使い方までは教えてくれない。

Googleの検索と知的創造との関係というのは、ホームセンターに放り出されて、「家を作ってください。材料や工具はいくらでもありますよ」といわれても、職人でもあるまいに、家は建てられっこないのに似ている。

結局は道具の使い方まで込みで優位性なのだから、その知識 = 道具にあらかじめ何回か触れ、ある程度親しみ深くなっておかないと話にならない。ゆえに優位性をもたらすものは、慣れ親しんだ知識。しかも本質への理解を伴う知識だ。

知識詰め軽視は危険だ。それは「ねんどベラ一本で造形大会に出場する」ことに似ている。

かといって知識詰めさえしておけば間違いないということも100%ないだろうが。