遡行

虚無感、義務感、不毛感はどこまで無くせるのか

世界はなぜ醜いのか

世界はなぜ醜いのか、という疑問に対して導かれる答えは、大概、個々人の鬱憤晴らしの域を出ていない。つまりある人にとっての世界の醜さとは、所詮はその人が日々感じる不満や経験する失敗の恣意的法則化でしかないのかもしれない: 私がこんなにもひどい状態にあるのは世界が醜いからだ、という風に、自分(または親しい人)の苦境を必然的なもの、外部に原因のあるものとみなすことによる、認知的不協和の解消手段としての「醜さ。」

だとすれば世界の醜さとは相対的(人それぞれ)なもので、だいたい生活の苦しい人ほど世界は醜いことになる。なんて身も蓋もないのだろう。

あるいは実際に世界は醜くて、人によって醜さへの感度が異なるがゆえに世界の醜さが相対的になるのかもしれない: 芸術家は世界の醜さを誰よりも知っている(感度が高い)。実務家は醜さなど知ったこっちゃない(感度が低い、ないしは低くしないと務まらない)。この場合もやはり、それぞれの感じ取る世界の醜さは「その人の責務や人格や能力、経験」に規定されており、そうであればこそ醜さは相対的になる。

醜さの相対性の検証のために、神の視点を想定してみる。神は地球儀を持っていて、気まぐれに日本を覗き込むと、そこに今日の日本の人間模様が映し出される。神は醜さを感じるだろうか?あらゆる願望や利害に束縛されない存在にとって醜さとは果たしてなんなのか?

神は醜さを感じないだろうと思う。例えば私達が部屋の中で衝突と運動を際限なく繰り返す空気分子を(心の目で)見たときに醜いとは感じない。餌を運ぶアリの大群を見ても、シャチに捕食されるイワシを見ても、木々を呑み込む溶岩流も、星の消滅と生成が繰り返される宇宙も、私達がそれを形容するのに醜いとは言わない。人間もそういう地平に生きる生物体ーーー物理法則に従って生成と運動、消滅を繰り返す存在ーーーであることに違いない。きっと神はそういう目線を私達に注いでいる。だから神にとっての人間は醜くはない。醜さという次元がそもそも意識されない。

ここから、醜さは無知と関わり深い、という仮説が生まれる: 私達が世界を醜いと感じるのは、(みずからの驕りや無知を棚に上げて)世界を醜いままに、感じ取るままに、自分の経験や情感に語らせるままに判断するからである。というのも、自分がいまこの瞬間に知覚している現象の原理や本質を知り尽くしている場合(それはまさに神の立場)、その現象は醜さとしてよりまず最初に調和感、蓋然性、妥当性、整合性=「腑に落ちる感じ」として経験され、そうであるがゆえに、「醜い/美しい」という評価軸はもはや持ち込まれなくなるであろうから。

要するに

  • 私達が基本的に、自分という個体、主観性に引きこもり、自分の感性や利害の正当性に過度の信頼を置く存在であるがゆえに、世界は醜いものとして捉えられる;
  • 超越的で客観的な視点は醜さという次元を抜きにして対象を捉えようとする;
  • 認識の対象となる現象の醜さは無知に根ざしている。

資本主義下の私生活の神話

私たちが憧れるような理想的な「私生活」「婚姻関係」「家族」は幻想であり、資本主義制度下で私たちは幻想と抱き合わせに、奴隷的な扱いを強いられている。

という主旨の下記記事の内容。

socialistreview.org.uk

 

子どもの頃私たちは、自分のしたいことをして、自分自身で決断を下すことのできる大人に早くなりたくて、誕生日をカウントしたものだった。しかし大人になってみれば、私たちは大人の自由が幻想であったことに気づく。子ども時代のワクワクするような人生の夢は、終わることのない仕事に置き換えられ、なけなしの対価を得る。失敗していると感じる。私たちは何を間違えたのだろうか?答えはーーー何も。私たちは何も間違えていない。資本主義がそのように機能している(というだけだ)。

巨大なカジノのごとく、資本主義は多くを約束し、わずかに与える。少数の者が成功して裕福になり、「あなたにも同じことができる」という神話が再強化される。しかしそのゲームは資本家階級によって操られている。私たちが一生懸命に働けば働くほど、資本家は裕福になり、私たちは病気になっていく。あらゆる詐欺と同様に、資本主義は敗者に敗北をあきらめて受け入れさせなければならないので、資本主義は決して詐欺を終わらせるよう組織しない。私的(個人的)な選択のフィクションを促進することで、私たちは誤って自分自身を責める方向にいってしまう。

資本主義は、物事をその実態と違う風にみせる芸術を洗練させてきた。労働と暮らしは2つの別個の領域であるように見える: 労働は私たちの物質的な要求を満たすための領域であり; 暮らしは私たちの情緒的な要求を満たすための、家族の、友情の、愛の、興味や趣味の領域である。

また、各領域では異なった法則性が適用されているようだ。労働は資本主義経済によって形成されている一方で、暮らしは資本主義によってではなく、心理学的で個人的なダイナミクスによって形成されているようにみえる。この二領域モデルは2つの解決を導く: 経済的革命によって仕事を一変させるか; あるいは個別的で個人的な革命によって私たちの関係を一変させるか。

現実には、ただひとつの領域ーーー資本主義ーーーが存在するだけであり、私たちはそれを社会的にも個人的にも経験しているーーーひとつの領域とひとつの解決。私的な選択の強調は社会システムとしての資本主義の影響をおおい隠し、労働者たちは私たちの共通の階級から興味を逸らしてしまう。

労働者

封建的農業制度の下では、労働と暮らしは労働者階級のために統合されていた。彼らはともに働く人たちとともに暮らしていた。資本主義は家族からの生産を物理的に取り除き、私たちが「私生活」とか「自由な時間」とか呼ぶ、仕事から隔たった空間を作り出した。実際にはそこに関して自由などない。なぜなら労働者の生活は資本主義の需要(要求)に支配されているからだ: 私たちは仕事の準備をし、通勤と退勤をして、勤務日の疲れから立ち直り、次世代の労働者を育て上げなければならない。

それら生殖のためのタスクは資本主義に利するものではないけれども、それらがなくなったら生産は止まる。このことは産業革命のときに明らかになった。時計回りの工場労働が死亡率を急上昇させ、イギリスの工場労働者の平均余命が18年に短縮された。労働の供給を守るために何かが行われなければならなかった。

資本家階級は、幼児・託児所、団体のキッチン、共同生活のための資金調達によって、新しい労働者の安定した流れを確保することができた。しかし、社会サービスを提供することには利益はなく、労働者階級はそれを主張するほど強くはなかった。

代替案は、再生(reproduction)を個人に担わせることだった。女性と子どもの能力を制限する法が制定された。男性は「家族賃金」を支払われ、女性と子どもを養う法的責任を背負わされた。これらの措置によって、男性は一家の頭に置かれた。両親はその子どもについて法的責任を負った。離婚は制限され、ホモセクシャルは禁止された。

教会は、婚姻外の姦通、離婚、婚姻外の子供、避妊、同性愛を非難し、妻と夫との親を親に従属させることによって国家を支持した。事実上、近代的な家族はいかなる選択肢も禁止することによって建設された。労働者階級の家族はひとつの機能、再生 - 労働者のエネルギーの日々の再生、次世代の労働者の再生 - を持っている。結婚からロマンチックなベニヤ板を剥ぐと、結婚とは、2人がお互いと子孫の世話をすることに同意する契約である。社会はそれをしてくれないから。

かつて村が提供していた(感情的、社会的、物質的な支援)繁殖機能は、今や結婚相手の責任である。この変遷をサポートするために「ロマンティックな愛」という概念が作られた。最初のロマンス小説は1740年に登場し、ジェーン・オーステンが1800年代初めにそのジャンルを一般化した。今日、ロマンティックな愛を促進させることは、数10億ドルの産業である。しかし、離婚率と関係の破綻率の高さが、ある人がもうひとりの人のすべてのニーズを満たすことがほとんど不可能であることを示している。

資本主義は、労働者が家族で補充され、再生産されることを要求しない。それは他の方法で行える。奴隷を死ぬまで搾取しても、また新しい奴隷で置き換えることができる。農業、木材、鉱業の企業の多くは、家族が遠く離れて暮らしている労働者をケアするための収容所を設けている。そして刑務所労働者の再生産は、州によって完全に資金提供されている。しかし資本主義はその財政的・政治的アドバンテージのために家族システムを好む。財政的には、家庭で行われた無償労働の世界的価値は年間7兆ポンド以上と推定されている。政治的には、家族は資本主義のための重要な社会化ユニットとして働く。

現代の家族は、働く女性の犠牲によって維持されている。資本主義がアフリカの奴隷制を促進するために人種差別を必要としたように、育児のための社会的支援を否定するにはセクシズムが必要になる。セクシズムは、女性の主な役割は子どもを産むことだと決めてかかり、労働者階級の女性の、「いつ、どんな条件のもとで子どもを産むのかをコントロールする(産まないことを選ぶことを含む)権利」を否定する。繁殖管理の欠如、産休の不十分、妊娠後の就労の安全性の低下、賃金の低下などが結びついて、大部分の女性は高齢男性に経済的に依存し続ける。

セクシズムはまた、男性を家族制度に結びつける。 「家族の義務」によって男性は、義務がなければ退職するような仕事に縛られる。男性はある家族と離れ他の家族を築いたあとでさえ、女性と子どもを支援することを期待されている。北アメリカの「死んだ父親(“dead-beat dads”)」は児童の養育費を払っていないため、刑務所に収容されているかもしれない。女性が「家庭内の親」としての役割に縛られているように、男性は「家庭のための金銭を受け取る人」としての役割に縛られている。最近のアメリカの調査では、父親の2/3ができることなら配偶者から子育ての責務を分離させたいとしている。しかしアメリカ人男性の14%にしか育児休暇を取る権利がない。

育児休暇を取る男性を拒否することは、彼らを子供から疎外させ、賃金の引き下げによる育児負担の増加を女性に強制する。私たちが家族で暮らすことを選択するのは神話である; 私たちはその神話に閉じ込められている。神話が機能するために、法体系は家族システムから逃げ出そうと試みた者を罰する。離婚した夫婦は、高価で心の張り裂けそうな法的障害によって強制される。子どもの世話をする責務を放棄した親は起訴されることがある。家庭から逃げ出した若者は、強制的に家族に戻されたり、別の家族に居住したり、収容所に閉じ込められたりする。同性愛者は引き続き差別、暴力、殺人の犠牲者となっている。

社会サービスが欠如しているから、個人は生涯に渡って家族へ依存せざるをえない。病気の、傷ついた、失業中の、困っている人は家族に頼ることを期待される。社会的支援は故意に不十分で懲罰的なので、絶望的な状況に置かれた人たちだけがそれを利用する。その結果、私たちのほとんどは、私たちの子供や両親のためのパーソナルケアサービスを提供するように強制されている。

ロマンス

選択肢の欠如を受け入れられるようにするために、ロマンス、結婚、家族は生きていくための最良かつ唯一の方法として奨励される。私たちはみんな子どもの頃に歌を学ぶ: "ジョンとメアリーは木に座っている。 K.I.S.S.I.N.G. 最初に愛が来て、その後結婚して、赤ちゃんがベビーカーに来る"(その順番で)

もちろん、再生産的家族は異なった形式を取ることができる: 義理の親、シングルマザー/ファザー、同性愛の親。私たちは同性愛の親が資本主義を脅かすものと考えていたが、そうではない。米国の共和党の億万長者ポール・シンガーは、同性愛者との結婚を「社会的安定性、家族の安定性、そして子育ての安定性の増強」と呼んでいる。

家族は階級の役割と期待を再生産する。ジェンダーの役割も再生産する。新生児についての最初の質問は、それが男の子か女の子かである。そしてその答えは、子どもが残りの人生で、どのように扱われ、どのような振る舞いを期待されるのかを決定する。主に女性が子育てをすることを見越して、少女たちは親切で、優しく、忍耐強く、愛情深く、面倒見がよく、受容的で、利他的で、外観に投資され、男性に従順で、性的に控えめで、性的に忠実であるように社会化(socialize)される。

男性は「家庭のための金銭を受け取る人」として(そして戦争で戦う者として)期待されるので、少年は訓練され、強く、競争力があり、野心的で、論理的で独立しており、戦う準備ができており、女性の保護者であり、異性愛者であるように社会化(socialize)される。男性のジェンダーの役割は、競争と戦闘を促すため、男性は親密な関係を築くことと育児について準備不足である。ジェンダーの役割は、お互いに圧力をかけているゲイの人々の間でさえ避けられない。

役割

男性と女性のジェンダーの役割は完全に反対である。男性は体毛が生えていることを、女性は体毛を取り除くことを期待される; 女性は体毛を取り除くよう圧力がかけられる。性欲の強い男性は色男(stud)だが、対応して性欲の強い女性は尻軽(slut)である。人生の実質的にすべてのものーーー私たちが好む色から、私たちが着る服、私たちが享受する贈り物、私たちが楽しむ趣味ーーーは、ジェンダーに規定されているので、女性は自分自身のうちの男性的なあらゆる部分を拒絶する。男性も同様に、自分自身のうちの女性的なあらゆる部分を拒絶する。

制限されたジェンダーの役割は、誰もが完全な人間であることを不可能にする。感情的に敏感な男の子は、女々しい、弱虫、または意気地なしとして恥をかく。自信を持って断言的な少女は、威張り屋、あばずれ、同性愛者、男勝りとして恥をかく。これらの窮屈なジェンダーの役割に自分自身を押しつぶしてから、私たちは生涯にわたって自分自身で拒絶した特性を示す異性の人とパートナーになることが期待される。それは成功のためのレシピではない。

不可能なジェンダーの期待は、決定的な失望を招く。女性は、彼女の夢を叶えてくれるチャンピオンまたは王子様のような男性と出会うよう育てられる。彼女はそれが不可能だと気づくと、不満を表現したり、絶望のうちに引き下がったりする。男性は「あなたは基準に達していません」というメッセージを受け取る。男性はどうだろうか?男性は、いつもセックスの準備ができている暖かい気配りのパートナーを求めるよう育てられる。(しかし)彼が得るのは、過労で疲れ切っていてすぐにイライラするパートナーである。双方は自分を責め、お互いを責める。しかし本当はどちらにも非はない。

資本は、自分がされている搾取に疑問を持たず、「目上の人を敬い」「こつこつ勉強する」労働者から、最も効率的に抽出される。

大多数の労働者階級は、服従を要求され、疑問を持つことは禁止され、反抗は処罰される。子どもたちはナチュラルに科学者なので、資本主義に疑問を呈する。彼らはすべての「なぜ?」を知ろうとする。そして答えが好ましくなければ、彼らは「なぜ?」と問い続ける。新しい世代の執拗な問いかけは、すべてを再考する機会である。彼らは最も破壊的だ。

子どもたちが資本主義の不公平を受け入れるには、彼らの探求する精神を挫折させて、従順にしなければならない。このプロセスは家族で始まり、学校で強化され、職場で統合される。

子供の「なぜ?」に直面したとき、大部分の大人はあまりにもストレスが強く、あまりにも恐ろしく、またはあまりにも恥ずかしいので、答えようとしない。大人の意気消沈は、質問は受け入れられないということを子どもに伝えている。「そうなっているからだよ......」

ナチュラル

私たちは、疑問が受け入れられなかった場合、自分自身のその疑問な部分が受け入れられないと結論づける。自分自身の疑問を抑圧しながら人生を過ごした後、子どもの疑問を抑圧するようになるのは自然なことである。子どもは私たちの言うようにしなければならず、口答えしてはならない。結局、それは大人自身のためなのだ。

子ども時代に、私たちは、従えば「良い」、従わなければ「悪い」ことを学んだ。愛と受容は、自分を支配する人間に仕える場合には条件的になる。子どもたちは、異なったジェンダーの期待のフィルターを通じて、そのメッセージを受け取るが、それは両性に適用される。少女は自分のニーズよりも他人のニーズを優先することを期待される。少年は、雇用者と上級役員のために自分の人生を危険にさらして、分配することを期待される。

好奇心を抱く子供たちを従順に変え、"機械"を生産し再生することは、私たちのあらゆる反抗心を強制的に拒絶する、永続的な辱めのプロセスを必要とする: 私たちの好奇心、傾聴され価値づけられ、能動的に人生や周囲の世界を形成していくことの必要性は否定されている。その結果、私たちは決して完全な人間にはなれない。私たちが自分のある一部分に価値がないと思うとき、自分を見せることは恥ずかしいことだと感じ、私たちの関係性は表面的で不安定なままになる。

私たちが誰であるかを示すことができない場合、私たちは私たちであるがゆえに愛されているのだと信じることができない。条件付きの愛は不安定であるため、外見、成果、地位によって愛を得ようとする試みは失敗に終わる。そして価値と関係の親密さにおける不安定性は、私たちを悲惨にする。虚無感や孤独感を抱くとき、私たちは自分自身を責め、お互いを責める。自分自身を責めることは痛みを麻痺させるために、より多くの恥や、低い自尊心、不安、抑うつ、中毒を引き起こす。お互いを責めることは、また別の地獄を作り出す。

なぜ「異質な人間」は嫌悪されるのか?

異質な人間への嫌悪を、手間=コストの観点から考えてみる。

最もシミュレートが困難であるものの1つが人の心だ。ただでさえ他者の心というのは一筋縄ではいかない。それが自分とは異質な他者の心であれば尚更だ。

私たちが他者の心の異質さを垣間見たとき、膨大なシミュレーションコストが予感される。そしてその膨大なコストを負担する正当性ーーーすなわち覚悟あるいは意義あるいは良心ーーーが欠如しているとき、その予感は嫌悪感や億劫さへと変わる。

この嫌悪感や億劫さが、円滑な関係を築いていくのにネックになっていくことは言うまでもない。

心のシミュレーションコストの計算は意識に表面化しないだけで、無意識下で目まぐるしく行われているものと思われる。(もちろん"コストの計算"というのは比喩的であって、嫌悪感の根源となるような心理作用が数学的に表現されるような実態を持つとは限らない。)

自分と同質な他者のなにより望ましい性質は、シミュレーションコストの少なさ、言い換えれば心の予測可能性の高さおよび心の理解の容易さ、抵抗感の少なさである。互いの言葉や態度の細やかな機微をわざわざ思考の俎上に置くまでもなく、それは互いの存在の深い領域、高い次元においてすでに了解されているために、互いの心は、良い意味でもはや気に掛けられていない。

対して異質な他者どうしというのは、まず互いの心を考慮することにコストを割く。異質さが甚だしければそれだけ、心のシミュレートは滞る。この時点ではまだかろうじて、異質さは「解体されようとしている。」

しかしシミュレーションコストが当人の許容範囲を上回り、シミュレーションの遅滞が一線を越えたとき、ついに異質な他者の心の予測=心の理解は断念され、異質な他者の異質さは異質さとして(=「理解しがたいもの」として)確定される。

大体の場合において、その異質さにはマイナスイメージが付与される。なぜならそれは、それまで費やしてきた多大なシミュレーションコストの回収の失敗を意味しているからである。そしてなにより、「心のシミュレーションにおいて自分の有する性質や知見、経験が機能しないこと」を認めることは、平均的な人格にとって心理的負担が大きい。

異質な人間というのは存在そのものが、周囲の人間へのアンチテーゼなのである: 異質な人間は、その心の予測困難性を介して周囲の人間に膨大なシミュレーションコストを要求し浪費することによって、周囲の人間の現在および過去の営みを(意図せずとも実質的に)否定する。この"実質的否定"に対する周囲の心理的抵抗感が、嫌悪感として表出する。

異質な人間の異質さとはしたがって、「その心のシミュレーションにおいて、周囲の人間のシミュレーション資源(みずからの性質、知見、認識)が有用でないこと」、そしてそれゆえに「周囲の人間のシミュレーションコストを容赦なく無に帰すこと」である。

また人間の同質性とは、「心のシミュレーションコストが安定的に回収される見込み」である。

巨大な真実の統一体と知性

一人ひとりの人間はそれぞれ固有の真実の体現者であり、社会全体としての真実の体現形態が後に時代と呼ばれる。

そして時代の連なりの様態が、より深遠な真実として後代の人間の前に投げかけられる。

たかが一時代のたかが一人の人間からは、希薄な意味と片落ちの真実(half-truth)しか見出されない。しかしそういう個人の不完全性を、完全性として、固有性として、代替不能な真実の断片として"加味"する知性は、つねに想定可能である。

そういう知性の実現は不可能に近い一方で、その知性の視界および認識を近似的に想像することはできる: その視界においては、価値や序列・世俗といった概念はもはやその形を保たず、ただただ静的で巨大な真実の統一体としての世界が観察されるだけである。それをより具体的、個別的な意味に分解することはできず、仮に出来たとしても、それらの意味の断片の総和は元の真実の統一体の真部分集合でしかない。

核心的なのは、不完全性の集積は不完全性とは限らないことである。あるいはこう言うべきかもしれない: 全体性を経由しない知性にとっての「不完全性」は不完全だ。(その不完全さの程度は経由する全体性の不完全さに対応している。)

真実を相互補完的に体現する存在としての個々人の意味は誰にも奪われない。しかしその意味は決して、完全には汲み取られない。完全な全体性を経由して個々人を観察できる知性が実在しないからである。先述のように、我々には完全に全体的な知性の視界を近似することしかできない。

しかし楽観的になれば、調和的な世界を営んでいくために十分な近似の精度を実現することさえ可能ならば、人間にとってはそれで十分だ。さまざまな技術を運用可能かつ実用的にしているのは近似解であって理論解ではないように。

よって、調和的な世界の実現可能性の問題に際しては

  • 人間にはどれ位の全体観が可能なのか
  • 人間に必要とされる(=人間が目指すべき)近似精度はどれほどか
  • それがどのようにして実現可能なのか

をまずは考えるのがよさそうだ。

 

自尊心と成熟、傷つくことと社会

私は自尊心の防衛としての他者の言葉にも自分の言葉にも、心底うんざりしている。どういう言葉かというと、自分の居場所を守るために他者の居場所を侵す(あるいは貶める)言葉、他者を(時に取り返しのつかないほど)傷つける言葉である。

そういう言葉を発さないことというのは、意識してどうこうなる次元の問題でもないし、付け焼き刃的な知識は役に立たない。なぜなら、自尊心の基盤が強固なのかそれとも脆弱なのか、そして人間として十分に成熟しているか、それらが人間の意欲や態度、果ては行為と言動、洞察力や世界観を決定的に左右しているからである。意識や知識というのはどちらかといえば表層的なものである。

だとすれば、他者を傷つけているか否かは、人間としての成熟ぐあいの如実な指標となるのではないか?(それは流石に短絡的すぎるが、当記事ではひとまずその考えに則ってみる。)

精神的・知的に成熟した人間だけが誰も傷つけない言葉を知り、心からそれを発し、そして実際に誰も傷つけない生き方を送ることができる。その上、更に成熟が進めば、他者を傷つけないだけでなく、救うことのできる次元にまで及ぶだろう。

自尊心の強固な基盤は人間の成熟のための必要条件である。また、人間の成熟は自尊心の自足的充足のための必要条件である、言い換えれば、人間は未成熟なうちは、自尊心を保つために他者を必要とする。

その「他者の必要性」には主に2つの意味合いがあって、

  • 家族愛、共同体の絆、組織システム、成功体験などによる健全で文化的で、強固な自尊心基盤
  • 主観的、攻撃的、差別的、自己擁護的で観念的で流動的で、他者を傷つける過程を本質的に伴う、脆弱な自尊心基盤

のうちどちらかを利用可能なのかによって、その個人の自尊心の維持如何、そして成熟の様相は断然異なってくる。

いわゆる「不幸な人間」というのは、前者の自尊心基盤が利用不可能な状況を余儀なくされた人間であり、その自尊心基盤の脆弱性ゆえに人間としての成熟が滞っている人間である。

そういう人間は自尊心の維持のために、後者の自尊心基盤に、消去法的に依存する。しかし成熟はままならない。

世の中の争いや諍いやいがみ合いの大部分は、未成熟な人間の自尊心の拠り所として捉えれば腑に落ちる。(もちろん「真っ当で」「成熟した」争いもある。)

未成熟な人間の最も顕著な側面は攻撃性であり、彼らは冒頭に書いたように、自分のために他人を侵し貶める。しかし彼らは彼らの抱える自尊心基盤 - 事情から、そうする必要に迫られているのである。

彼らに傷つけられた人間は少しだけ自信や元気を失って、その分だけ成熟が遅れていくだろう。するとその分だけ強固な方の自尊心基盤の強固さが揺らぎ、その分だけ成員の成熟が遅れる。つまり社会全体が、未成熟な人間の攻撃性を起点として、成熟に関する負のスパイラルに落ち込んでいく。

傷つく人間の多い社会というのは、成員が、社会システムの運営に求められる成熟度を平均して達成出来ていない社会といえるのではないか。

同様に、社会に救われない人間が多いのならば、成員はまだまだ成熟の余地を残しているということなのではないか。私は、誰もが救われる世界が、個々の人間が十分に成熟することによって実現可能であると信じたい。

その信条から更に派生する信条なのだが、誰かを傷つける必要のある理屈はほとんど必ず、不完全性や欺瞞性、そして未成熟性を含んでいるものだ。

絶対的な子ども 病理的な成人

健康な成人の「健康さ」は相対性に侵食されている: ある成人の健康さは他の成人の病理性でありうる。

対して子どもの健康さに疑いはなく、疑いを向けるのは真に病的な成人以外にありえない。子どもの生態は本能や真理、本来性にきわめて近接しており、その点に関して成人は子どもに及ぶべくもない。

成人の健康の相対性の根源の一つは動機性である。非本来的に条件づけられた成人の認識作用はことごとく動機的になる。つまり何を見るにも、何を知るにも、何を感じるにも、意識はその向こう側の目的に束縛されており、眼前の対象物はほとんど無視されている。ただ虚ろな心理的視線が対象を掠めるばかりである。精神は浮足立って、いまこの瞬間から時間的・質的に隔たったどこかを漂っている。そういう成人は、隣にいる他者が苦悶の表情で居ても気付かないフリができるし、悲痛な叫びをあげていても右から左に聞き流せる。他者への献身が彼の目的によって正当化されないかぎり。

それでも、成人の見据えている目的が何らかの価値を有する場合、現実軽視はかろうじて許容されうる。つまりそういう成人は、正しい価値を追求できているという意味で、かろうじて健康の範疇に踏みとどまっていると言えなくもない。

最悪なのは「病的な」成人の場合で、見据えている目的の価値すらあやしい場合である。彼らの目的というのは言うなれば、現代的な生活様式を通じて生成された、精緻でまことしやかな蜃気楼である。絶望的なことに、成人もその周辺の現実も報われないことが確定している。なんたって彼らが追い縋っているのは蜃気楼である。

ここで私が語っている成人の病理性というのはつまりは、価値のないものを追い求めてしまえる精神の劣化・衰弱・迷妄のことになる。

この病理性は二重の病理性である: 誤った(蜃気楼に追い縋るような)価値判断をすること、そしてそういう価値判断をしている自分を(能力不足で/活力不足で)批判的に捉えられないこと。

厄介なことに、この病理性はえてして他者軽視を伴う。自分を批判する機能の低下と、存在次元での他者との矛盾の感知に伴う不快感とが合わさると、防衛機制としての他者への攻撃性あるいは自己への注視性が強化される。いずれも他者の尊重とは逆行する傾向性である。

そういう経緯を経た個人が密集する組織においては、相異なる価値観が「排他的に」乱立する。なぜなら、より激しく表出した防衛機制的・自己愛的な価値判断は、相互の違いばかりを悪い意味で際立たせ、相互の建設的 - 共通基盤の発見への誘因を軽視あるいは看過する傾向を強めていくからである。

併せて、そういう個人はえてして「自身の健康さ」を主張する。「病理的な精神による価値判断は正当ではない」という一般的認識に則る程度の目敏さは備えているからである。

ここで冒頭の「成人の健康さの相対性」に繋がった。このようにして、自己批判性に乏しい個人間の非建設的な相互作用によって、(しばしば互いに矛盾するような)「健康さ」が並存するハメになる。(「健康さ」は「正しさ」と言い換えてもいいかもしれない。)

子どもはそうではない。子どもの健康さはただひとつである: 子どもはただ生きてさえいれば、一挙手一投足、その全てが健全性に満ちている。子どもは無条件的に健康であり正解であり、そのため異なる子どもの健康さが相矛盾することはない。

子どもは先述の二重の病理性から免れている: 子どもの価値判断は真に迫っている。そして子どもは自分を否定することについて、能力面でも活力面でも不足がない。

思うに、子どもの「動機の無さ」(あるいは「動機の無垢さ」か?)が子どもの認識の稀有さを、ひいては子どもの健全性の根本なのだ。子どもの認識において最重要視されているのは現実そのものであり、子どもは現実に則して自己を否定(=刷新)することを容易く行う。

子どもの絶対的な健康さから放たれる言葉が、凡百の成人を後ろめたい気持ちにさせる。思うにこのことは、成人も深層心理においては「自分は決定的に誤っている」「自分は病的だ」「自分は本来的でない」「自分は浅はかだ」ということを知っていることの証ではないか。そうでなければ、子どもの言葉が成人の心を揺さぶることはないはずだ。

ここに健康な成人になるための活路が見出される:子どもの言葉に耳を傾け、子どもを見習い、子どもの心を思い出すことは誰にでもできて、しかもそういう"心の更新作業"の価値は子どもの絶対的な健康さに裏付けられている。

ただし、子どもにそういう視線を向けることは、動機的であり、現実軽視的であり、不純であり、子どもそれ自体は結局眼中にない。それゆえ子どもにとっては、そういう視線は大いに有害でありうる。子どもはあくまで子ども自身の人生を生きるために生きているのであって、成人の病理性の治療という目的に彼らを従属させることは許されない。

生まれた頃は誰もが健康だったはずであり、皮相的な(あるいは形骸化した)慣習、社会的立場の維持のためのいざこざ、合目的的な些事、資本主義付随的 - "蜃気楼"のために大人は病的になり、しかも病的な自分に気付けないという病理性がそこに上乗せされて、もはや何が何だかわからなくなりながら、独善的に生きるしかなくなっていく。

そういう状況における指針として、私は次の私見を掲げる: 自己批判には能力も活力も必要であり、いずれかが不足することの主要な帰結が現実軽視である。

構造の機能に関する雑感

構造に身を置くことは、程度の差こそあれ

  • ​欲求の範囲、感情の種類および激しさ、認識の深度、その他さまざまな人間的要素に制限をかけ秩序づけられること

だと考える。「られる」というのが核心。

例えば日本社会という構造に身を置き続ける限りは

などのことはほとんど考慮する必要にみまわれない。他のとある構造内では誰しもが当たり前に考えていることであるにも関わらず。

良くも悪くも、構造の内側はとことん限定的になる。

あることがらを考えなくて済む環境では、そのことがら周辺の問題解決能力を育む機会はおろか、解決能力の無さに直面する機会すら与えられない。

だから日本では必然的に、「異人種と共存できないこと」「実力主義に適応できないこと」「宗教的な体験の恩恵に与れないこと」に悩む日本人も、そういう事柄に関して問題意識を持つ日本人も、ごく少数になる。そもそもそういう観点を持つ必要性が(平均的な日常に埋没する限り)ないから。

構造は大多数の成員の大まかな行動および思想を完全に決定づける、と思っている。「構造の定めた規範に疑問を抱き、抗うこと」に違和感を抱かせること、それも構造の機能であり、常識を疑わない成員が大多数を占めればこそ、構造は安定的に維持される。

もっとも、構造の認識制約機能はむしろ構造の長所でもあり、人々を認識のカオスから守る役割を担っている。人間の知的能力は有限なので、考えるべきことは少ないに越したことはない。また、人間の平均的知的能力はそれほど芳しくないので、一定以上に複雑で難解な事象に際しては、杓子定規的な意思決定規範に脳死的に従うのが安定行動となる。そして脳死した人間が一定割合にまで増加すれば、社会全体は"社会秩序"を実現する。

脳死した人間は構造の奴隷であるとともに、構造の維持者(Stabilizer)でもある。彼らはいざとなれば、"構造の敵"に容赦なく牙をむくだろう。

ところで、認識制約下で人間はごく少数の対象に多大なエネルギーを注ぎ込むようになるので、大衆の統制が容易になる;このことは例えば、見るもの全てに興味を示す元気な子どもと、部屋で寝そべって受動的にスマホばかり見ている子どもとで、"手間のかからなさ"、"言うことの聞かせやすさ"、"未来の行動の予測可能性"を比較すればよくわかる。

認識制約性はときにプラスの効果ももたらす:ある対象への専心がもたらす深い認識はやがて構造全体を豊かにする公算が比較的大きい。

構造は

  • ​成員が知的能力を割り当てる対象を(実質的に)制限することで 
  • ごく限られた対象への認識が構造全体として深まるようにし 
  • その深化を構造維持の原動力として、次世代をまた育む 

というような原理に基いており、またそうであればこそ、構造として採用され、成立している。

構造に従うのか、それとも抗うのか

あなたがもし

  • ​構造の定めた「ご褒美」が魅力的であり 
  • 構造の定めた平均的人格(言い換えれば構造内の努力目標)に、自分もなりたいと感じる
  • ​もっと一般的にいえば、構造の規範と、自身の価値観とが矛盾しない 

ならば、(あなたが何を意図して生きているのかはさておき、)あなたと構造は相性が良い。その相性の良さをどう解釈するのかは置いておいて。

そうではなく反対に、

  • ​構造内で得られる報酬一切に魅力を見いだせず 
  • 構造内でもてはやされているどんな人格にも心酔・同調できず
  • ​​構造の規範に救われたためしがない 

者にとっては、

  • ​構造が定めている認識の制約 
  • ​構造が定めている価値序列(≒規範) 

障害以外の何物でもない。

そういう者は構造に深く入り込めば入り込むほど、構造の規範と自分自身の価値観との板挟みに苦悩する。

だからそういう者は、構造から独立するための諸条件を探求するしかない。構造に属しながら、構造の与えてくる認識への諸影響に抗うしかない。

構造からの影響を明晰にメタ認識すれば、そういう反抗は十分可能であると、個人的には感じている。

くだらなさ=無理解の露呈

くだらなさとは、つまりは何なのか?

・くだらなさは「私個人が経験する機会に乏しいがために食わず嫌い的に嫌っているもの」に見出される

・くだらなさは「多様な状況および文脈において私の存在を脅かすもの」に見出される

・くだらなさは「観測範囲内の多くの人が関与を敬遠するところのもの」に見出される

・くだらなさは「かつて失敗を導いた、または、多くの場合失敗を導くことの確証がある原因性」に見出される

・くだらなさは「もはや機能を失い、人々の処理能力をいたずらに消費するだけの形骸化したシステム」に見出される

・くだらなさは「他者と自己の非対称性を悪い意味で強調するもの」に見出される

・くだらなさは「譲るわけにはいかない信念周辺に消し去り難く存在している、他者と自己の不一致性や利害関係」に見出される

・くだらなさは「私の認識の部分いずれをも活性化させないもの」に見出される

・くだらなさは「望ましい情念を私の中に湧き上がらせないことが判明しているもの」に見出される

・くだらなさは「かつて私がいかようにも受け容れることのできなかった対象に近接しているもの」に見出される

・くだらなさは「(様々なスケールの)普遍集合の要素として、その普遍集合への影響力が無視できるほど微小であることが認識されうるもの」に見出される

・くだらなさは「何かもっと素晴らしいものの劣化コピーであると感じさせるところのもの」に見出される

・くだらなさは「他律的で独自性に欠け、活力に乏しいもの」に見出される

・くだらなさは「政治的・経済的目的のための交渉材料」に見出される

おそらくまだまだある。

人々はどんな意味で「くだらない」と口にしているのだろう。

私が思うには

・「それを考慮しない私」の正当化(≒聖域化 / 安定化)を図った精神ないし心理が認識として現象させるもの

それがくだらなさである。

おそらく、くだらなさが認識内に生じた時点においては、脳はアトラクタ状態にある。

言い換えれば、くだらなさを感じる脳(≒認識作用)は低エネルギー状態に陥っていて、くだらないと感じるところのものに対する思惟はその働きを停止している。つまり「理解しよう」という意識が働いていない。

そういう意味で、くだらなさ(=「くだらない」という感情)とは

・無理解の露呈

である、と言えてしまうかもしれない。

つまりこういうことだ:

「くだらない」という感情は、"認識に必要とするエネルギー"に関する最小化問題の解としての世界認識に、必然的に伴うものだ;

世界全てを「くだらなくない」とみなせるのは無限の知性だけである。

有限の知性たる人間は、世界の大部分を「くだらなさ」の中に格納することで認識をやりくりしている。限られた「くだらなくないもの」に尽力するために。

だから私たちが「くだらない」と切り捨てる対象には、理解されていない点、考慮されていない点が多分に残されている。つまりは無理解なのである。

「くだらないもの」を理解・考慮しようとすれば、認識は一度"認識エネルギー最小解"から外れなければならない。つまり認識のためのエネルギーを増大させなければならない。それは怠惰な本性を持つ人間にとってはえてして厳しい営みになる上に、「「くだらないもの」にあえて時間を掛けるのは馬鹿らしいことだ」、なんて風潮も手伝う。

そういうわけで個々人にとっての「くだらないもの」は、意識的な注力のないかぎり「くだらないもの」として在り続ける。すなわち無理解は無理解として露呈されたままになる。


さて、以上のことを踏まえると、

・他人と自分の「くだらなさ」を感情的に比較すること、優劣をつけることは不毛である: それは生きていく上で何に重きを置くのか(、重きを置いてきたのか、重きを置かざるを得なかったのか)の違いでしかない。(ただし分析的な相互比較は対人関係を良好にしうるので大いに推奨される)

・「くだらなさ」は一概に悪いものでもない: それは人間の認識原理と個々人の人生とから導かれる"認識の局所解"の対応物であり付随物である

・「くだらなさ」を(一時的にでも)感じたくないのなら、平常時以上のエネルギーをその「くだらないもの」に費やし、何らかの認識の更新を試みればよい

・私たちは各々のくだらなさの局所性を重々承知するべきである

ことがわかる。

V・E・フランクル『虚無感について』1

ジークムント・フロイトはかつて次のように述べたことがある。「たくさんの様々な人々を同じように飢えに晒したならばどうなるだろうか。その飢えが我慢の限界を超えて増大するにしたがって、個々人の違いは不明瞭になり、それに代わって、満たされない飢えを表現する同じ行動だけが生じるだろう。」しかしながら実際には、強制収容所ではその逆こそが真実であった。そこでは人々はますますその多様性を表してきた。獣性が現れたが、同時に聖なる姿も現れたのである。飢えている状態は共通でしたが、その人々の振る舞い方はそれぞれ異なっていた。実際にカロリーは重要ではなかったということである。
『虚無感について』(ヴィクトール・E・フランクル) p.215
私たちはともすれば欲求の充足具合客観的(外的)な条件づけが人間の振る舞いを、ひいては人間の意味を、完全に決めるのだと信じてしまう。しかし実際にはその真逆が真実である。あるいは、その真逆が真実であると信じて生きるべきである。あるいは、そう信じて生きることが人間には本質的に不可欠である。
ヴィクトール・E・フランクルの思想は、強制収容所という極限状態においてその理論の正しさが実証されたという点において説得性がある。更に、実証性を差し引いても、そもそも理論に整合性と一貫性、そして多くの哲学的・心理学的な見地からの反駁に耐えうることを感じさせる深みと温かさがある。
特筆すべきは、いかなる構造の、いかなる状況にある、いかなる能力の人間にも、フランクルの理論は十全に適用されうる点である。つまり理論は普遍性と柔軟性を備えているとともに、あらゆる差別的な観念から隔絶している。
「私たちの存在の内実はそれが組み込まれた構造に依存する」という実存から派生する無力感 = 虚無感から、私たちを解き放つことのできる理論である。
『虚無感について』は、(数ある哲学書のように)純粋な(えてして私たちの生の何の足しにもならない)観念をこねくり回す類の書物とは一線を画しており、私たちが今まさに必要としている知見を多分に含んでいる。虚無感に悩まされるすべての人に一読をおすすめしたい。
 
 
 
冒頭に引用した部分はV・E・フランクルの思想の本質的な部分から若干ずれているが、なんとなく、日本の現状とのをリンクを見出したため引用した。
様々な数字が「日本は落ち目である」と示す今日、そんな現実の厳しさとは裏腹に、人々は状況にへこたれるどころかむしろ多様性を増大させている(ように私にはみえる)。フランクルは人間のそういう意味側面を態度価値と呼ぶ。
ある人の外部環境が悪化する状況でこそ、その人の考え方や価値観、意味の創造力が真に試される。人間の意味を本質的に左右するのは、その人の苦悩の仕方 = 苦難への態度である
ここにマゾヒズムを見出す人がいるかもしれない。つまり「人間は苦しむからこそ意味がある、だから苦しめ」といったニュアンスを見出す人がいるかもしれないが、フランクル

マゾヒズムの危険はありません 。なぜならば、潜在的な意味は、欠くことのできない、免れることのできない、避けることのできない苦悩の中にしかないからです。

 と否定する。だから「できるだけ多く苦悩すべきである」だとか、「苦しみはそれ自体、無条件的に価値あるものだ」といったニュアンスは一切ない。

重要なのは、避けることのできない苦難に対してどういった態度をとるかであり、その態度如何で、個人固有の意味が発見できることである。

『虚無感について』では終始、

  • 人間は意味を問う存在ではなく、人生に問われた意味に答えるーーーしかも責任を持って答えるーーー存在である

ということが繰り返される。

(実存的な)意味を自分で考えることができる、という点で人間は本質的に自由な存在なのだが、責任の伴わない自由はただの自分勝手である。

2に続く